苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

草鞋の歌 旅の歌

 若山牧水の『草鞋の歌、旅の歌』のなかに、小淵沢駅、野辺山が原、松原湖という名を見出した。

「富士の裾野の一部を通つて、いはゆる五湖を廻り、甲府の盆地に出で、汽車で富士見高原に在る小淵沢駅までゆき、そこから念場が原といふ広い広い原にかゝつた。八ヶ岳の表の裾野にあたるものでよく人のいふ富士見高原などもいはゞこの一部をなすものかも知れぬ。八里四方の廣さがあると土地の人は言つてゐた。
 その原を通り越すと今度は信州路になつて野辺山が原といふのに入つた。これは、同じ八ヶ岳の裏の裾野をなすもので、同じく廣茫たる大原野である。富士の裾野の大野原と呼ばるゝあたりや淺間の裏の六里が原あたりの、一面に萱や芒のなびいてゐるのと違つて、八ヶ岳の裾野は裏表とも多く落葉松の林や、白樺の森や、名も知らぬ灌木林などで埋つてゐるので見た所いかにも荒涼としてゐる。丁度樹木の葉といふ葉の落ちつくした頃であつたので、一層物寂びた眺めをしてゐた。野辺山が原の中にある松原湖といふ小さな湖の岸の宿に二日ほど休んだが、一日は物すごい木枯であつた。そこから千曲川に沿うて下り、御牧が原に行つた。」

 明治43年(1910年)9月から10月、山梨、信州に遊んだときのことが書かれたものである。牧水26歳の秋であった。小海線が開通したのが昭和10年(1935年)のことであるから、牧水の当時は中央線小淵沢駅で下車すれば、あとはひたすらに野辺山高原に向かって草鞋の足で歩くほかなかったわけである。小海線野辺山駅付近でJR日本最高地点1375メートルを通っている。現在の野辺山は高原野菜の大産地で、緑の畑が広がっているが、野辺山の開墾は先の大戦後のことであるから、牧水がここを訪れた当時は、ただただ落葉松(カラマツ)と白樺と潅木の林がひろがっていたのであった。鉄道がとおる前、野辺山あたりは秘境というイメージだったのではないか。
 少々腑に落ちない感じがしたのは、牧水が松原湖を「野辺山高原の中にある小さな湖」と呼んでいることである。このあたりに住む者の現在の印象としては、野辺山と松原湖はかなり離れたところにある。だが、松原湖から千曲川にくだり、佐久方面へと北進したと記されているのを見れば、どうやら牧水は野辺山高原海ノ口峠を下って千曲川沿いに出ないで、野辺山から標高を維持しつつ山中の道をひたすら松原湖に出るまで進んだらしい。だとすれば、牧水にとって松原湖野辺山高原の中にある小さな湖として印象付けられたのも無理はないのかもしれぬ。
 それにしても明治までの歌人は、健脚だったのだと思う。西行芭蕉をはじめとして、古来、歌人たちは日々旅にして旅を棲家としていた。彼らの歌は、頭に浮かぶというよりも、むしろしっかりと踏みしめた大地から湧き上がってくるものであったのだろう。

 オキナグサ 昔はこのあたりの田んぼのあぜにいくらでもあったそうですが、今は少し珍しい植物です。花が咲いた後、白髪の翁のようになります。