苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

御子の人性が永遠であるという見解について

 けさ、小著『神を愛するための神学講座』の千葉の読者からご質問をいただいた。「キリストが人性をとられたのはいつからなのか?」という問いである。二つの考え方がありえて、一つは処女マリヤのうちに宿られたその時以降であるという見かたであり、もう一つは永遠の初めから御子は真の神であり真の人であるという見かたである。むろん前者のほうが単純明瞭に聖書に現れた見かたであり、一般的なものである。しかし、後者も聖書を創造から終末まで旧新約聖書全体に啓示されたところを見るときに導きだされうる、相当妥当性のある見かたであると思われる。以下、エイレナイオスのことばをも参照しつつメモする。

1.まず、三位一体なる神は自存的に(つまり被造物に依存せず)永遠の交わりをもって存在しておられることが確認されねばならない。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」(ヨハネ1:1,2)

 「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ 17:5)


2.三位一体なる神が万物の創造をなさるにあたり、第二位格つまり御子が被造物との仲保的役割を果たされた。

 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:3)

 「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:16,17)


3.創造にあたって、三位一体なる神は、ご自身の似姿(かたち)にしたがって人を創造された。

「 神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:26,27)
 


4.人の創造における神の似姿とは、第二位格の御子であると解されうる。

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ1:15)

 そもそも、御父は超越者でいらっしゃるところに特徴があり、御子は仲保者としての役割を担われるところに特徴がある。救済のみならず人間の創造にあたっても、御子が御父と人間との仲保的立場に立たれたと解しうる。
そうだとすると、創世記1:26,27節の翻訳は、新改訳「われわれのかたちとして」「神のかたちとして」という翻訳よりも、文語訳「我らにかたどりて我らのかたちのごとくに」、「神の像のごとくに」のほうが適切であると思われる。御子が「神のかたち」であり、その御子に似る者として人が造られたということになるからである。
 教父エイレナイオスは、創造における「神の似姿」は御子であると言っている。「『・・・(神は)人を神の似像として造ったからである。』そして、似像とは神の子であり、人間は(その神の子の)似像に造られたのであった。そういうわけで、『終りの時に』(その神の子は)似像(である人間)が彼自身に似ていることを見せるために『現れた』(Ⅰペト1:20)のであった。」(『使徒たちの使信の説明』22)
 エイレナイオスはさらに、人間が神の似姿であるというのは、息吹きに関してばかりでなく、外観に関しても神の似姿であると主張している。「しかし人間の場合、神は土の最も純粋で細かいところを取って、ちょうどよい割合に自分自身の力と土とを混ぜ合わせ、自らの手で形づくった。人間が形づくられ、地におかれたのは、神の似姿としてであったから、見える外観も神のようなものであるべきだと、神が人間の身体に自身の外形を与えたのであった。また人が生きるようになるため、『神はその顔に生命の息吹を吹き込んだ』その結果、人間は身体においてばかりでなく、息吹に関しても神に似たものとなった。」(エイレナイオス『使徒たちの使信の説明』11)
 この見解は、プラトン的影響によって不可視の神に徹している西洋神学の神観に慣れた我々には、かなり奇異なもとして映る。しかし、聖書においては神が人の姿をして出現するという記述が幾度か見られる。創世記3章には夕涼みに神がアダムに会おうとエデンの園を散歩されたと記されているし、アブラハムにも神は人の姿をもって出現している(創世記18章)。また、ダニエルが幻のうちに啓示された神の姿は次のようなものであった。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。」(ダニエル7:13)聖書的にいえば、神が人の姿をしておられるのではなく、人が神の姿をしているのである。
 

5.キリスト信徒の聖化とは、御子に似た者に変えられて行くことであり(ローマ8:29,2コリント3:18)、御子が御父と瓜二つであられるので、聖化は創造主である御父に似た者と変えられていくことでもあり、それは再創造のわざである(マタイ5:48,エペソ4:24、コロサイ3:10)。
 そもそも人間の創造が御子の似姿として造られたことであるからこそ、聖化が御子に似せられることであり、御父に似せられることだと言われうるのだと思われる。つまり、人間はそもそも「神のかたち」である御子に似せて造られた。ところが、人間は、神に背いた結果「神のかたち」とは似ても似つかぬ者となってしまった。しかし、神に立ち返って再び「神のかたち」すなわち御子に似た者として創造し直していただくのであるというわけである。
 このように旧新約聖書全体からとらえるとき、御子が神性と人性を兼ね備えておられるということは、処女マリヤのうちに宿ったとき以降のことであると見るよりも、永遠の昔からそうであられるのだという理解の仕方には、相当の妥当性があると見ることができるであろう。


6.とはいえ、御子の受肉の出来事は、新約聖書において決定的に重要なこととして扱われていることはいうまでもないことである。神が人となられたという、そのもっとも明瞭なかたちでの啓示は、やはり処女マリヤのうちに御子が宿られたということにあることは事実である。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」1ヨハネ4:2

*『神を愛するための神学講座』http://gospel.sakura.ne.jp/wikiforj/index.php?%BF%C0%A4%F2%B0%A6%A4%B9%A4%EB%A4%BF%A4%E1%A4%CE%BF%C0%B3%D8%B9%D6%BA%C2%A1%CA%BF%E5%C1%F0%BD%A4%BC%A3%A1%CB


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