苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

まことのいのち?

 ちょっと久しぶりに新改訳について気になるところを取り上げたい。マタイ福音書16章26節である。
文語訳> 人、全世界を贏くとも、己が生命を損せば、何の益あらん、又またその生命の代りに何を與へんや。

口語訳> たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。

塚本訳> たとい全世界をもうけても、命を損するならば、その人は何を得するのだろう。それとも、人は(一度失った永遠の)命を受けもどす代価として、何か(神に)渡すことができるのだろうか。

前田訳> 全世界をかち得てもおのがいのちをとられれば何の役に立とう。おのがいのちの代価に何を与えようか。

新共同> 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。


新改訳> 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 なぜ、新改訳だけ、「まことのいのち」と訳しているのだろうか?ギリシャ語テキストではプシュケー・アウトゥであるから、「自分のいのち」「おのがいのち」以外には訳しようがないと思われる。神学的予見が入り込んだ訳であろう。どうか新改訳は看板とする日本語としての流麗さでなく「原文が透けて見えるような翻訳」をめざすことを徹して欲しいものである。それが取り柄であるのだから。