苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「礼拝と音楽」講習会

「それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。天の天もあなたをお入れすることはできません。まして私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」Ⅱ歴代6:18
下川羊和(よな)牧師は、このみことばから語り始められた。4月29日長野福音教会で開かれた「礼拝と音楽」講習会のことである。以下に、下川師の講演概要をメモしておく。
 いろいろな時代にいろいろな文化の中で、神に対する賛美がささげられてきた。そこにはさまざまな形態の賛美があるし、あってよいのだが、すべてに共通する賛美のありかたというものがある。ソロモン王が神殿奉献の日にささげた祈りにはその賛美の根本的なありかたが表現されている。

 すなわち、礼拝において賛美において己が最高最善のものをささげるべきである。だが、最高のものをささげてなお、偉大な神の前では自分のささげるものは小さなものであることをわきまえる謙遜さ。
 多様性の時代、特に世代間ギャップの大きな現代において、礼拝者がみな心ひとつになって礼拝するためにはという課題がある。礼拝プログラムの構成、ひとつひとつの要素を具体的に確認し理解をすることが、会衆がこころ一つに礼拝するために有効である。
 公同礼拝は<①神の招き②みことばの宣教③聖餐④派遣・頌栄・祝福>と大きく区分される。
①神の招きの部分
 招詞の前に準備としてワーシップソングをいくつか歌うのもよい。会衆に若者が多い場合の配慮。
 招詞は神の招きによって礼拝が始まることを示す。招詞に続く第一の賛美は情緒的なものよりも、意思的で教理的にきちんとした背筋を伸ばさせられるような賛美がよい。
 次に罪の告白と赦しの宣言というプログラムを入れるか、あるいは祈祷のうちに罪の告白とキリストの十字架のもとにある赦しをこめる。
②みことばの宣教
 みことばの朗読と説教に先立ち、御霊の光を求める賛美をささげる。ここで、讃美歌19番、190番、「ともに歌おう」5番を練習した。
 説教後、みことばへの応答としての賛美をささげる。個々の黙祷のうちの応答もありうるが、それとともに心一つに応答することも大切であり、そのために適切な賛美がささげられることが望ましい。
③今回は聖餐については触れない。別の機会に。
④しめくくりの部分
 頌栄はまもなく礼拝が終わりますよというシグナルではない。神にいっさいの栄光をお返しするとき。基本は聖三位一体の栄光を歌うもの。近年は、この部分に「派遣」の意味をこめるべきだということが強調され、それにふさわしい賛美がささげられることもある。この世から集ってきた兄弟姉妹が、神の祝福を受けて、この世に祝福を分かつという使命を帯びて遣わされて行く。だから、このとき牧師は神に託された権威をもって「祝福」を会衆に与える宣言としての祝祷をする。

*感想*
 ひとつひとつの説明が、講師が単に音楽家ではなく、牧師であり、かつ、教会音楽家であることが十分に生きたお話だった。つまり、会衆が心ひとつに神を礼拝するためにどうすべきかという本筋・目的から決して外れることなく、それぞれの群れの状態に柔軟に応じるというやさしい牧会的配慮を適切に加えながら、賛美について周到な話をしてくださった。話だけでなく、要所要所で会衆が立ち上がって羊和先生の伴奏によって賛美をし、結びは頌栄の実践練習をさせていただいた。参加者一同、主に対する畏れと喜びを新たにしたときであった。


 会場となった長野福音教会の裏にはりんご畑があって、りんごの花が咲き初めていた。これまで、「歩くジュークボックス」は、りんごの実を見るたび「りんごのはなびらが、風に散ったよな。月夜に月夜に・・・」と口ずさんではいたのだが、その花をじっくりと見たことがなかった。白い花ではあろうと知っていたが、その蕾が濃いピンクであったとは、意外だった。