苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

教会と風呂屋

 「ああ、いい湯だった。」「でも、少しぬるくなかった?」風呂屋の帰り道の会話。「ああ、きょうの説教は恵まれた。」「でも、少し長くなかった?」こちらは教会での礼拝の帰り道にありがちな会話。両者なんだか似ているが、何かおかしくはないだろうか。たしかに風呂屋でリラックスして垢を落として、からだをあっためて、元気を回復して、浪花節でもうなって、フルーツ牛乳でも飲んでさっぱりして帰ってくるのと、教会に行って、罪を告白して心の垢を落として、神様の愛で元気を回復して、讃美歌を思い切り歌って、聖餐にあずかって帰ってくるというのは似ているところがないわけではない。けれども、やっぱりちがうはずだ。
 どこが違うか?風呂屋帰りの人は、客の立場で風呂屋を批評していればよい。だが、礼拝帰りの人は、客ではなくて主体の側であろう。彼は礼拝者であるから。だとしたら他のことを批評している場合ではなく、まずは自分のことを振り返るべきである。一人一人会堂に集った者が、聖なる神に自分自身をおささげする祭司である。だとしたら礼拝者は、「ああ説教に恵まれた。」「長かったなあ。」という風呂屋帰りの人みたいな感想を述べる前に、「私はきょう、主に対して熱心に自分をおささげできたでしょうか?」と、神の前で自分自身を吟味することこそしなければならないことである。
 もちろん説教者は説教者で、「私はきょう、正しくいのちあるものとしてみことばを語ることができたでしょうか?勤勉に、平明に、忠実に、賢明に、熱心に、誠実に、説教できたでしょうか?」と、神様の前に自己吟味する必要がある。自分が取り次いだ説教によって、兄弟姉妹がより正しく神を知り、より深く神を愛する人となることができただろうかと吟味するのである。
 ウェストミンスター大教理問答に次のようにある。

「問159 神のみ言葉は、その職務に召された者によって、どのように説教されなければならないか。
 答 み言葉の宣教に働くよう召された者は、
   健全な教理を
    勤勉に、時が良くても悪くても、
    平明に、人の知恵の巧みな言葉によらず、み霊と力との証明によって、
    忠実に、神のみ旨をあますところなく伝えて、
    賢明に、聴衆の必要と能力に適合して、
    熱心に、神と神の民の魂への熱愛をもって、
    誠実に、神の栄光と民の回心と建徳と救いを目ざして、
   説教しなければならない。」
 
 他方、説教を聞く者には、聖なる神のことばを聞く責任がある。

「問160 み言葉の説教を聞く者に、何が求められているか。
 答 み言葉の説教を聞く者に、次のことが求められている。すなわち、
   勤勉・準備・祈りをもってそれに聞くこと、
   聞いた説教を聖書によって調べること、
   信仰・愛・柔和・心の備えをもって真理を神のみ言葉として受け入れること、
   それについてめい想し、語り合うこと、
   心にたくわえて、生活の中でその実を結ぶことである。」

(*写真は小海町HPより)