苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

サウル王の信心

  (4月14,15,16日は理にかなった礼拝についてのメモです)
 竜頭蛇尾。サウル王の生涯を一言で表現すれば、まさにそういうことだった。謙遜そうで風采もなかなか立派な人物として神に選び出されながら、彼の最期は悲惨だった。なにがサウルの根本問題だったのか。それは彼の信心深さだったことがうかがえる。
 ある日ペリシテ人との戦が迫っているのに、いけにえをささげる預言者サムエルの到着が遅れていた。そのときサウルはあせって、神の命令に背いて自らの手で全焼のいけにえをささげた。そして、御怒りをこうむった(Ⅰサムエル13章)。また、主はサウルにアマレク聖絶を命じたのに、ある家畜たちを生かしておき、御怒りをこうむったこともある。彼は言い訳をした、「主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」(15章)。神の命令に背きながら、神へのいけにえをささげるサウル。おそらくサウル王は、いけにえをささげるという宗教的行為を何か超自然の力を得るための技術として捉えていた。つまり、サウルはある種の魔術として、主へのいけにえを捉えていたふしがある。それは、彼が霊媒を禁止しておきながら、自ら不安になると霊媒のところに赴いたという行動にもうかがえる(28章)。
 サウルは無神論者や合理主義者ではなく、たしかに信心深い人だった。けれども、サウルの宗教性は、魔術的な自分流のものであった。礼拝において、神はたしかに私たちに力と喜びを注いでくださるのであるが、それは結果であって目的であってはならない。生ける神の恵みに対して愛と服従の応答をする礼拝は、それ自体、最高の目的であって手段ではないからである。神は、みこころのままに、神をあがめる私たちに力と喜びを注がれるのである。
  「主はの御声に聞き従うことほどに、
  全焼のいけにえや、その他のいけにえを
  喜ばれるだろうか。
  見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
  耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」1サムエル 15:22

 ドウダンツツジがぽつぽつ咲き始めました。