苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神であり救い主であるキリスト

Ⅱペテロ1章1節の翻訳について比較してみよう。
文語訳  我らの神および救主イエス・キリスト
口語訳 わたしたちの神と救主イエス・キリスト
塚本訳 我らの神と救い主イエス・キリスト
前田訳 われらの神また救い主イエス・キリスト
新共同 わたしたちの神と救い主イエス・キリスト
新改訳 私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト
 この個所で新改訳聖書のみが、イエス・キリストが神でありかつ救い主であると明示する翻訳をしていて、他の訳はみな神と救い主を分けている。ギリシャ語本文はとなっている。新改訳が、上記のような翻訳をしたのは、グランヴィル・シャープの法則(以下、GS法則)と呼ばれる法則を根拠としている。GS法則とは「冠詞が一連のことばの最初の部分の前にだけ付けられる場合は、おのおのの部分は結合された全体であると見なし、冠詞がおのおのの単語の前に付けられるときは、それぞれは別個のものであると見なす」とJ.ハロルド・グリンリーは定義している。つまり、<冠詞 名詞A kai 冠詞 名詞B kai 冠詞 名詞C>ならば、A、B、Cは別個のものと見なされるが、<冠詞 名詞A kai 名詞B kai 名詞C>と並んだばあい、冠詞はAのみならずB,Cにもかかってワンセットと考えられるわけである。たとえば、エペソ3:18はto platos kai mekos kai hypsos kai bathosとあるが、最初に置かれた冠詞toはplatos(広さ)のみならず、mekos,hypsos,bathosにもかかっているので、「その広さ、長さ、高さ、深さ」と訳される。
 新改訳は、GS法則がⅡペテロ1:1に適用されているとして、「私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト」と訳したわけだ。
 では、次の個所では、どうか。 
テトス2章13節<tou megalou theou kai soteros hemon>
文語訳 大いなる神、われらの救主イエス・キリスト
口語訳 大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエス
塚本訳 大なる神及びわれらの救い主キリスト・イエス
前田訳 大いなる神でわれらの救い主にいますキリスト・イエス
新共同 偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリスト
新改訳 大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス
 こうして並べてみると、テトス2:13についても新改訳は「大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス」と訳しており、ここでは文語訳、口語訳、前田訳、新共同訳ともに、GS法則を適用した訳をしている。ただ塚本訳のみはGS法則をここに見ていない。このあたりはキリストの神性を明瞭にするという新改訳の面目躍如といったところで、迷いなくGS法則を適用して翻訳がなされている。他方、口語訳、前田訳、新共同訳は行き当たりばったりの観がする。翻訳者たちのキリストの神性に対する理解の迷いがそのようにさせているのか、あるいはGS法則が文脈によって常に有効であるとは見ないということなのか、筆者にはわからない。
 そういえば、グランヴィル・シャープの法則について丁寧に教えてくれたのは、同期の故遠藤嘉信牧師だった。もう二十数年前、彼が米国留学する前のことである。遠藤牧師とは学生時代から知り合いだった。私は聖書研究会で、顧問のセム語学者津村俊夫先生のお世話になっていた。遠藤君は別の学校から聖書神学舎に進んで津村俊夫先生に師事し、私はキリ神に進んだ。思えば、津村先生を真ん中にはさんで、遠藤君と私は出会ったというわけである。また伝道者になって最初の任地が近かったことで、おたがいに若い伝道者としていっそう親しく交わらせていただいた。釈義的なことでわからないことがあると、時々彼に質問をして助けられ、彼は教義学や教理史について私に電話で質問してくることがあった。私には十分に答える能力がなかったけれど。・・・こんなにも早く彼が召されるとは思いも寄らなかった。