苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「何を知るか」でなく「どのように知るか」

 以前にもこのブログで一度とりあげたことがあるのだが、新改訳聖書のなかで気になっている個所のひとつが、第一コリント8章2節である。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」とある。なにが気になるかといえば、「知らなければならないほどの『ことも』」と訳されているけれど、ギリシャ語では「知らなければならない『ようには(カソース)』」とあるからである。「知らなければならないほどのこと」といえば、今知っている知識では不足しているから、知識を増やすことが望まれているように誤解されるであろう。しかも、残念なことに、文語訳、口語約、前田訳、新共同訳いずれも、新改訳と同じように「事」「こと」と訳してしまっている。
 ただ塚本訳のみが次のように正確に訳している。「もしある人が(愛がなくて)何か知っていると思うならば、彼は知らねばならぬようにはまだ知っていないのである。」カッコ内の注釈もまことに的確である。蓄えている知識の量が肝心なのではない。愛をもって知るその態度が肝心なのである。直前の節には「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」とあるから、そのつながりから理解すれば、謙遜と愛をもって知るというその「知り方」が大事だとされているのである。

参照>http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20090508/1241790001