福音派で新しい聖書翻訳事業がスタートするそうである。筆者は語学に決して堪能ではないけれど、一応聖書言語を学ぶ機会に恵まれて、牧師として聖書に取り組んで毎週説教準備をしてきて、気になるところがやはりあるものである。それは、きっと筆者だけではないと思う。そういう説教者たちのメモを聖書翻訳者たちに届けることができたら、よりよい翻訳聖書を生み出すためのヒントにはなるのではなかろうか。そんなことを思って、「新改訳聖書」のカテゴリーで、あと数回、聖書翻訳にかんするメモをしておきたいと思っている。カテゴリーボタン「新改訳聖書」をクリックすれば、まとめて見ることができます。
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多くの人に親しまれ、かつ誤解されている聖句のひとつにマタイ4章4節がある。新改訳では「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」とあり、文語訳、口語訳、前田訳いずれも似たり寄ったりの翻訳である。多くの人は、この一節を読んで、「人には肉体がある以上、肉体の糧も必要だけれど、それだけではほんとうに生きたということにはならず、魂の糧である神のことばも必要だ。」という誤解をしているし、文脈を見ないでさらっとこの一節だけを読めばそういうふうに解釈するのが常識にかなっていよう。
けれども、もう二十年以上も前に岩波文庫の『福音書』塚本虎二訳を見て驚いた。「しかし答えられた「“パンがなくとも人は生きられる。(もしなければ、)神はそのお口から出る言葉のひとつびとつで(パンを造って、)人を生かしてくださる”と(聖書に)書いてある。」と訳している。一見、大胆すぎる訳だが、よくよくマタイ福音書4章の悪魔による荒野の誘惑の問答の文脈をわきまえれば、塚本訳のみ筋が通っている。このとき、悪魔はすきっ腹の主イエスに対して「石をパンに変えてみよ」と誘惑した。「理想だけでは生きられまい。肉体がある以上、パンが必要ではないか」ということである。これに対して、「パンも必要だが、魂の糧の神のことばも必要だ。」などと間抜けな答えをしたら、「な、そうだろう。だから、石をパンに変えろと言っているんだよ。」と悪魔はさらに言い募ったにちがいない。
しかも、主イエスが引用なさった「人はパンだけで・・・」という申命記8章3節を見てみれば、一層塚本訳の理解の正しさが裏書される。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」つまり、主イエスが悪魔に対して言ったのは「人はパンだけで生きるのではない。パンが無いなら、神が言葉で作ったマナで生きることもできるのだ。」ということである。そういう言葉であったからこそ、悪魔はすごすごと退散したのである。
要するに、主イエスがおっしゃりたいのは、「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31-33)という趣旨である。乏しい中で主を第一として生きているキリスト者であれば、多かれ少なかれ経験したことがあるはずの真理である。
文語訳、口語訳、前田訳、新改訳では、、主イエスが悪魔をみごと撃退なさった趣旨が伝わらない。主イエスの趣旨をもっとも明確にした翻訳は、塚本の大胆な訳である。塚本訳は個人訳としての自由さを十分活かして、括弧を多用して思い切った訳ができたのであろう。おそらく新共同訳は、前半を言い切ることによってなんとかして主イエスが言わんとされたところを伝えようとしているように見えなくもない。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」