苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

うなぎがこわい?・・・出エジプト32:9

 新改訳聖書にかんして、筆者が「この訳語なんとかしてくれ!」といつも思わせられるのは、「うなじがこわい」という訳語である。「まんじゅうがこわい」にならって、「うなぎがこわい」というのではない。たとえば、出エジプト32:9「主はまた、モーセに仰せられた。『わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。』」ほかにもあちこち出てくる。
 「うなじのこわい民」というのは文語訳聖書における直訳語である。本来、馬やろばが、頸を固くして手綱を持つ御者のいうことを聞かないことを意味するらしい。日常的に馬やろばを見ることさえない日本人にはピンと来ない表現である。口語訳では「かたくなな民」と改めた。ところが、新改訳はなぜかまた文語訳にもどして「うなじがこわい」とした。新共同訳は口語訳と同様「かたくなな民」としている。ただ新共同訳にも「かたくなになる」という意味で、「うなじを固くする」という表現はわずかエレミヤ書(7:26,17:23,19:15)にのみ残されている。
 「『うなじがこわい』なんていう翻訳語は、新改訳を改めるときには撤去してほしいよ。」と、先に召された友人の旧約学者遠藤嘉信牧師に話したことがある。すると、彼は驚いて次のように言った。「えー!『うなじがこわい』というのは普通の日本語じゃないの?ぼくは幼い頃から、母に『嘉信。うなじをこわくしてはいけません』と叱られたものだよ。」これには、こっちがびっくりしてしまった。新改訳の用語が、遠藤家の日本語を形成してしまっていたらしい。まるでルター訳聖書が近代ドイツ語を、KJV欽定聖書が近代英語を形成したみたいな話。だがあちらはキリスト教が国教であった国、こちらはいまだクリスチャン人口1パーセント足らずの宣教地である。「聖書によって次の時代の日本語が作られるのだから、わからん言葉でもいいのだ」という議論は、通用しない。福音派教会内の一部で通じる隠語となるだけだ。わからん言葉で翻訳された聖書は読者を遠ざける宣教の妨げであろう。
 「うなじがこわい」ということばを翻訳するのに適切な現代日本語がないというならば、やむをえないが、「かたくなな」とか「強情な」と訳せば済む話である。聖書翻訳には、当然、聖書言語に堪能な学者が必須であるが、普通の日本語のわかる人の意見をも十分に参考にしていただきたいものである。遠藤牧師は遺された説教集に見るように、見事な日本語の使い手でもあったが、幼い日から聖書を食べるように育ってきたので、「うなじがこわい」を普通の日本語であると勘違していた。
 ふつう日本語で「かたくなな」という意味で「こわい(強い)」ということばを使う場合、「あの人は情のこわい人だ」という言い方はしても、「あの人はうなじのこわい人だ」とはいわない。そんなこと言ったら、相手が聞き違えて「じゃあ、彼にはうなぎじゃなくてステーキをご馳走しましょう。」ということになるか、あるいは聞き違えられなくても「ああ、そうなの。気の毒に、彼、こり症の人なんだね。いいマッサージ師を紹介してあげようかしら。」と誤解されるのがオチである。

*追加(3月29日)
 新改訳は日本語としてのなめらかさより原文が透けて見えるようなトランスパレントな訳文を志していることから、「うなじがこわい」にこだわっているのかも知れない。もし、そこまでいうならば、その方針を貫いて、たとえば、ルカ1:78など「これはわれらの神のあわれみに満ちたはらわたによる」とでも訳すべきであろう。実際には「これはわれらの神の深いあわれみによる。」と訳されている。