苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

あわれみ深い者の幸い                 荒籾実伝道師 説教要旨

「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」マタイ福音書5章7節

 「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」の幸いを私どもは味わってまいりましたが、ここまではどちらかといえば消極的な意味での神の子どもたち(クリスチャン)の性質について触れてきたのですが、「あわれみ深い者」からあとは、積極的な行動に現れる神の子どもの幸いについて主は語られます。では、「あわれみ深い」とはどういうことを意味するのでしょうか。

 「あわれみ」とは同情、慈善、施しといったことを意味します。聖書のなかであわれみ深い人の典型は、あの主イエスのたとえ話に登場する「善きサマリヤ人」です。エリコの町に登っていく街道で一人のユダヤ商人が強盗に襲われ、暴力を振るわれ身包み脱がされて道端に放り出されました。そこに祭司、レビ人が通りかかりましたが、かかわりをもつことを嫌って去ってゆきました。三番目に通りかかったのが、ユダヤ人が嫌っていたサマリヤ人でした。彼は、ユダヤ人の商人をかわいそうに思って駆け寄り、介抱し、宿屋にまで連れて行き、夜を徹して看護して、翌日には「帰りにはまた寄ります。足りない分はまた払いますから。」と告げて出かけて行きました。彼こそひどい目にあったユダヤ商人に対してあわれみをかけた人だと主は言われました。
 このように、あわれみ深いとは、単なる同情ではなく、自ら進んで相手のために犠牲を払うという行動をともなうことです。このサマリヤ人の行動に現れたあわれみ深さということを思うと、神様のあわれみに思いを致さないではいられません。
 神様はご自分に背を向け、罪に染まって生きている私たち人間をかわいそうに思ってくださいました。しかも、ただ同情しただけではなく、尊いひとり子イエス様をこの罪の世に遣わし、私たちの罪のためのあがないを成し遂げてくださいました。御子イエスは、あの十字架の上でご自分を犠牲として、私たちの罪を償ってくださいました。これこそ神の私たちに対するあわれみでした。
 
 「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」この祝福のもうひとつの特徴は、私たち神の子どもが隣人にあわれみ深くあるなら、それに対して、天の父は私たちにあわれみをもって報いてくださるという原則です。
 山上の説教のなかで類似の教えがなされる個所は、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ。」という、あわれみをもって赦すことに関することばがひとつです。「ごとく」というのは比例を表すことばです。「我らに罪を犯す者を我らが赦すのに比例して、私の罪をも赦してください。」と祈るのです。ですから、私たちはすでに神の子どもなのですから、隣人を赦すことがどんなに大切なことでしょう。
 もうひとつは、さばくことに関するあわれみの教えです。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」ここでも、私たち神の子どもが隣人をさばく基準で、天の父は私たちをさばかれるのだというのです。であれば、私たちは隣人に対してどれほど寛容であるべきでしょう。「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)

 天の父は私たちに、御子イエス受肉と十字架によってどれほどのあわれみを現わしてくださったことでしょう。であれば、私たちも天の父の子ども、主の証人として、隣人に対してあわれみ深い者として生きようではありませんか。