苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

七つの御霊?・・・黙示1:4

 新改訳でこれはどうかな?と思うところとして、黙示録1章4節の「七つの御霊」がある。
新改訳 「ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から」
 新改訳はプネウマを文脈に応じて、「霊」と「御霊」と訳し分ける翻訳方針を採っており、御霊と訳すのはそれが文脈上、聖霊を指していると解される場合である。だから、「七つの御霊」というのは聖霊を指していると理解されているわけである。けれど、聖霊が七つという教理は聞いたことがないというわけで、この新改訳に疑問を呈する人がいるのは当然だろう。
 ちなみに他の邦訳聖書を見てみると、文語訳、口語訳、前田訳、新共同訳とも「七つの霊」となっている。新共同訳はプネウマは文脈のいかんにかかわらず「霊」と訳す方針であるから、黙示録当該個所についての翻訳者の理解は不明であるが、文語訳・口語訳では新改訳と同じように文脈上聖霊を指す場合は「御霊」と訳すことにしているから、文語訳では黙示録当該個所の「7つのプネウマ」は聖霊でなくそれ以外の霊であると解していることがわかる。
 新改訳以外で「七つの御霊」と訳す邦訳は、塚本訳で、「七つの霊──(七つにして一つに在し給う御霊)」とある。ただし、「御霊」はギリシャ語本文では複数である。これも意外なことだが、英訳聖書で見ると、あのKJV(欽定訳)がthe seven Spiritsとしている。大文字が用いられているから、聖霊の意味に取っていることがわかる。新改訳に影響が強いと言われるNASBもKJVと同じである。
 ではなぜKJV、NASB、塚本訳、新改訳は、七つのプネウマ(複数)を、あえて聖霊であると理解するのであろうか。それは文脈から推してのことであろう。ここで著者ヨハネは七つの教会のために天からの祝福を祈り求めている。「 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。」天からの祝福を祈るにあたって、神ならぬ「七つの霊」からの祝福を求めるという信仰、いわゆる天使崇敬は新約聖書の他の個所から見出すことはできない。それゆえ、この「七つのプネウマ」は聖霊を意味する特殊な表現であると解したのであろう。このように考えると、筆者の現段階の理解では新改訳の「七つの御霊」という表現にはかなりの当惑をおぼえつつも、正解なのであろうと思う。もちろん新共同訳のようにプネウマをみな「霊」と訳してしまえば、読者の解釈に委ねれば良いことになるので翻訳者は悩む必要もなくなるのであろうが。