苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

我らに罪を犯す者を我らが赦す「ごとく」(その2)

 (きょうは妻と野辺山の樹氷の林をぬけて、川上村の家庭集会に出かけました。)

 
新改訳 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
口語訳 「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」
新共同 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

 多くの教会で主日ごとに声を合わせて祈る「主の祈り」は、文語訳で「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」であるが、新改訳は「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」と訳している。大きな違いは、「ごとく」ということばが訳出されていないことである。口語訳、新共同訳では「ように」と訳出している「ごとく」はギリシャ語では「ホース」という比例をあらわすことばである。「我らに罪を犯す者を我らが赦すのに比例して、我らの罪をも赦してください」というわけである。
 新改訳が意図するところは、「人の罪を赦すという功績を根拠として、私の罪を赦してください」という功績主義的義認論として誤解されないようにという配慮であろう。ローマ書などで明確にされている信仰義認の教理がゆるがされないために、「ごとく」「ように」を訳出しなかったのだろう。その意図はわからないではないが、そのために、<神に自分が赦されることと私が隣人を赦すことととの間には密接な関係がある>という主イエスの教えを犠牲にした翻訳になってしまっているのはいただけない。
 釈義と翻訳の原則としては、ローマ書の教理ではなく、まずはマタイ福音書、特に同じ「山上の説教」の中で考えるべきであろう。山上の説教を見渡すと、その中で、<我々の隣人に対する扱いに比例して、我々は神から扱われる>という教えを述べているのは次の三箇所である。

a.主の祈りの直後には「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(6:14,15)とある。「罪」の原語が主の祈りでは「負い目オフェイレーマ」であり、14,15節では「パラプトーマ」であるからことに注目して云々する説もあるが、ほとんど意味がない。

b.山上の祝福冒頭のイントロダクションにあたるところ。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」(5:7)

c.「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(7:1,2)

 これら三箇所は、いずれも読みようによっては、功績主義的義認論ではないかと誤解されそうな個所である。ポイントは、この山上の説教が未信者に対して語られているわけではなく、神を「天にいますわれらの父よ」と呼ぶことのできる神の子どもたちに対して教えられていることをわきまえることである。すでに神の子どもとされている者に対して、天父は<わが子よ。おまえが隣人を量るのに比例して、わたしはおまえを量るよ>とおっしゃっているのである。天父がわが子を訓育する上での取り扱いの公平の原則を述べているのである。あるいは神を愛する愛と隣人愛とは密接不可分な関係にあることを述べているのである。だから我々は、神の子としてもらうために、「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈るのではなく、すでに神の子どもとして召された者としてふさわしく、そのように祈るのである。
 二人の孤児を養子として迎えた父親がいたとする。弟が兄の宝物を壊してしまった。弟の過失をゆるそうとしない兄息子にむかって、「おまえが弟を赦さないなら、お父さんもお前が犯した過ちをゆるさないよ。」と諭している文脈である。神との基本的関係の回復における赦しと、神との基本的関係が回復した状態(父子関係)での聖化のプロセスの中での赦しを混同すると、話がわからなくなる。両者を区別して理解する必要がある。