苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

一つのキャベツと「聖なる公同の教会」

 「同盟には神学がない。」神学校1年生のころ、同級生にそう言われた。東京基督神学校(キリ神)は、もともと長老教会色の強い神学校で、そういうことを言うのは長老教会出身の神学生だった。だが、キリ神で学びが進むにつれて、ようすが変わってきた。それはキリ神における中心的授業は改革派教義学ではなく、歴史神学だったからであるように思う。当時は丸山忠孝校長が、教会史、教理史、信条学、教会論史といった科目を担当なさっていた。そして、丸山先生は、カルヴァンを重んじつつも長老派に我田引水するようなことをおっしゃることは決してなかった。学生にとっては、それが物足りないほどであった。
 おかげで私たちは、各教派神学を歴史的な視点から相対化し,自分の立場をも相対化することができるようになったのだと思う。神学というものは、ある時代のある地域のある文化の歴史的状況のなかで、教会が聖書の啓示に耳を傾けることによって生まれ育ってきた。したがって各神学には神のことばに根ざしているゆえの普遍性とともに、特定の歴史的状況に生まれたゆえの特殊性がある。そんなわけで、卒業の頃には神学生たちは「聖なる公同の教会」とはどういうことだろうと論じるようになっていたのである。また、いろんな背景の神学生たちが、一つのキャベツをむいて食べるような生活をして、同じ福音宣教の同志としての実感をもったことも大きかったのだろう。
 「一つのキャベツ」というのは男子寮談話室に転がっていたキャベツである。当時、キリ神男子寮は、主に従うために後ろの橋を切り捨てて来た神学生を思いやってか、夏休みになっても退寮する必要がなかった。しかし、休みにはいると学食が閉じてしまったから、貧乏神学生は自炊をしなければならなかった。肝心なことは、何が一番安価で滋養があるかという一点だった。神学生たちは麺類ではうどんやそばより、デュラム・セモリナ小麦百パーセントでつくったパスタならば、たんぱく質が多いと知って、成分表をよく見てパスタを買ってきて、肉野菜抜きの「素スパゲッティ」を作り、談話室のテーブルに転がっていたキャベツを四方からバリバリむきながら食べたものだった。キャベツもまた最も栄養価の高い野菜だということだった。


 そういえば、あのキャベツの、一枚一枚異なる形をした葉は一つの芯に直接に連なって、幾重もの層を成し、ひとつの玉であるという見事な構造は、「聖なる公同の教会」の構造に通じるものがあるような気がする。世界にひろがる教会はそれぞれの文化をもち、しかも、重層的な歴史を持ち、しかも、それぞれの教会がバラバラでなくひとつの玉を成しているのは、直接に芯としてのキリストにつながっているからである・・・なんてね。