苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

国母君

 一週間ほど前、スノボの国母君が、珍妙な服装をして、そのあと謝罪会見で「チッ・ウッセーナ」とつぶやいてから、「反省してま〜す」と言った件で、ずいぶんラジオやネットは騒いでいた。筆者は、服装も変だが、それ以上に、反省などしていないのに「反省してま〜す」と言ったことに違和感をおぼえた。いや反省していないことを精一杯表現するために、「反省してます」と言わず、「反省してま〜す」と言ったのだろう。
 その後、日本中は国母君のハーフパイプを注視した。たしかに一位の米国選手との力の差は歴然としていた。しかし、メダルを取りに行くことよりも、己にとって最難度のわざにどこまでも挑戦する勇気には、彼のいうリアル・スノーボーディングの迫力と説得力があった。彼がここに達するために、どれほど真剣に修練してきたかが想像できた。中にはメダルなしという結果だけを見て彼を叩き続ける人々もいるのだろうが、多くの人は、自分は国母君ほど命をかけて何事かに打ち込んでいるのかと問われたのではないだろうか?そのせいか、批判的報道は鳴りを潜めた。例のごとくスポンサーの圧力かもしれないが。
 だが、筆者がおじさんとして思うのは、あれほどリアルスノーボーディングというものに真剣に取り組んでいる選手なら、その格好や話し方も時と場所をわきまえたものであって欲しいということである。確かにまずは中身が大事。だが中身にふさわしい器というものがあるだろう。せっかく材料を吟味し、わざを磨き、腕によりをかけた料理を、ドッグフード用のプラスチックの器に盛っているのではもったいない。