苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

宮村武夫先生からの電話

 脳梗塞で入院・リハビリ中の、沖縄の宮村武夫先生からお電話をいただいた。「昨夜はひさしぶりにぐっすり4時間寝ることができたので、きょうは爽快なんです。」とおっしゃって、声だけ聞いているとご病気とは分からないほどで、うれしかった。
 リハビリの効果があって、杖を突いて歩くことができるようになってこられたということであるが、一番、複雑でむずかしいのは左手だとのこと。今、曲がった左手の指を伸ばす訓練をしていらっしゃる。
 「リハビリというのは、『回復』を意味するんでしょうが、人間というものが本来どういうものであるかを知らないで、どのように回復させることができるだろう。」そんなことを理学療法士の先生たちに話しかけながら、リハビリを楽しんでいらっしゃるということである。
 そこで筆者が「リハビリとは、神のかたちの回復ですか。」と申し上げると、先生は「そのとおり!神のかたちとしての人間がどういうものであるかということを知らないでリハビリはできない。神学も同じことです。」とおっしゃった。
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)
 そこで、最近、読み終えたネメシェギ神父の『神の恵みの神学』の話になった。昨秋、宮村先生にご紹介いただいた本である。ネメシェギ神父は、本書の中でかなり東方神学におけるテオーシスに好意的な理解を示している。テオーシスというギリシャ語はしばしば「神化」と訳されていて、ニューエイジャーたちはこれを汎神論的に曲解しているのだが、本来的には、テオーシスと神の本質と同一化することを意味するのではなく、父・子・聖霊の三位一体の神との人格的交流のなかに参与させられることを意味している。それほどに人間は本来的にすばらしい存在として創られたのである。・・・そのあたりのことを電話の向こうからお話くださった。
 宮村先生はあと三ヶ月ほど病院にいらっしゃることになるそうだが、その間、(できるかどうかわからないけれど)やりたいと思っていらっしゃるのは、一つはアウグスティヌス『三位一体論』の中沢宣夫訳と泉治典訳を比較して読むことと、一つは『告白録(賛美録)』の宮谷訳、山田晶訳、服部訳を比較して読むことと、もうひとつはネメシェギ神父のある本の初版とまもなく出された第二版を比較して読むことだそうである。「真理は細部に宿る」という観点から、このような比較的読みをしたいと思っていらっしゃるとのことだった。
 また今回の病に関しては、「今までも病気を持って来たけれど、今回はほんとうに自分ではどうしようもないところに叩き落とされて、丸たんぼうのようにごろんとして人からすべて手伝ってもらわねばなにもできなくなった。その視点から見えてくることがある。正直になることができた。」とおっしゃった。
 いろいろお話をうかがったが、電話の用件は「『著作集第一巻』をありがとうということです。」とのこと。お礼を申し上げるのはこちらである。いやお詫びしなければならないと思っているのは、第一巻後半部は出版調整で、ぎりぎりに原稿差し替えなどがあって校正のため一部目を通すことができなかったことである。