苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖なる畏れをもってささげよ

使徒4:32−5.11

2010年1月10日 小海主日礼拝

1. 伝道とコイノニア

 エルサレムに誕生した新約時代のキリスト教会の姿が32節から37節に記されています。32節と33節には、伝道の働きと教会のコイノニア(共有)の姿が記されています。
「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」
 以前にもお話したことなのですが、たいせつなことなので繰り返しますが、教会はその始まりから、伝道と社会的奉仕という二つの務めを果たしてきました。主イエスは伝道をなさるとともに、病める人を癒すということをしましたし、その弟子たちもそうでした。特に初代の教会に集う人々は、奴隷や貧しい人々が多かったので、コイノニアがたいせつにされていたのです。コイノニアというのは、共有する、分かち合うという意味です。
 ずっと時代は下って18世紀にはイギリスで産業革命が起こりました。蒸気の力を用いて毛織物工業を始めとする大工場が生まれます。すると、綿羊を育てればもうかるということで、大地主たちがそれまでお百姓たちに無料か安い小作料で使わせていた土地を取り上げて、羊の放牧地としてしまったのです。田舎で食べていけなくなった人々は、仕事を求めてロンドンをはじめとする都会に続々と移動しましたので、都市人口が爆発的に増え、貧しい人々の街がひろがりました。先祖の土地や教会から切り離されて都市に住むようになった人々は非常に貧しく、たましいの配慮を受けることができずに生活が荒廃していました。ロンドンの国教会は爆発的にふえる都市の貧困層に手を差し伸べようとしませんでした。世界的には、イギリスは「日の沈まない帝国」として華々しく展開していたのですが、国内は貧富の格差が非常にはなはだしくなって、ある人は当時のことを「最暗黒のイギリス」と呼んでいます。ディケンズが描いた『オリバー・ツイスト』の時代のことです。
このとき、神様はジョン・ウェスレーという伝道者を神様はお用いになりました。ウェスレーは国教会の教師でしたが、貧しい人々の街に出かけて伝道をすると同時に、救われた人々が健全な生活をすることができるように共同体を組織して、互いに交わり祈り具体的生活において助け合うようにしたのです。彼らは、みな土地を奪われてやむなく田舎から都会に出てきた人々でしたから、孤立していたのですが、主イエスに立ち返ると同時に、主にある兄弟姉妹を得て生活を改善していくことができたのです。今日歴史家は、ジョン・ウェスレーの働きを、その時代にあってもっとも有効な社会活動であったと評価しています。ウェスレーの働きのお手本は、新約聖書の教会の姿でした。伝道をすると同時に、救われた人々が生活を改善していくことができるように、互助的コイノニアをしたのです。
 初代教会の中には食べていけない人はいませんでした。資産家が救われたばあい、貧しい兄弟姉妹のことをわがこととして考えて、土地や屋敷を売り払ってお金に換えて教会に持ってきて分かち合ったからです。神様に対する信仰は兄弟愛を生み出すものだからです。そうした資産家の一人にバルナバと呼ばれたヨセフがおりまして、彼は自分と家族が食べていくには広すぎる畑を持っていましたので、それをお金に換えて使徒たちのところに持ってきましたので、使徒たちはそれを貧しい兄弟姉妹の救済にあてたのです。 
「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」
 まことに麗しい姿でした。このバルナバはのちにパウロとともにゴールデンコンビを組んで世界宣教に出かけて行く大きな人物です。慰めの子というのは、まさにぴったりのニックネームでした。

2.主が求めておられるのは

 ところが、こうした麗しい神の愛の交わりのなかに、悪魔は不純物を投げ込んだのです。それは虚栄でした。
 「ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」
 アナニヤ、サッピラ夫婦は相当の土地を持っていた資産家だったようです。バルナバが自分の畑を売り払って、その代金をささげて、貧しい人々に仕えているのが格好よく見えたのです。バルナバ自身は、その行為をひけらかすつもりはなかったのですが、相当多額なささげものとなりましたから、みんなの目についたのでしょう。「まあバルナバさんは、ほんとうに慰めと励ましの兄弟ねえ。」と評判になったのです。
アナニヤとサッピラは、自分たちもあんなふうに人々から賞賛を受け尊敬されたいと思いました。夫婦は考えました。「どうしたらバルナバに負けないほど賞賛が受けられるだろうか?」そこで夫婦は土地を売って、相当額の代金を得ました。そして、その一部を手元にとっておいて、残りを使徒のところに持って来たのです。そして、「これがあの地所の代金のすべてです」と偽ったのです。虚栄と偽り、これがすべてをご存知の聖なる神の前で大きな罪でした。
 4節にペテロがいうように、その土地はもともとアナニヤのものであり、売って得た代金もアナニヤの自由になったものなのです。十分の一を献げるもよし、いや半分は捧げたいというならば半分を献げるもよし、いやすべてを捧げたいというならそうすればよかったのです。いずれにしても、私たちがささげものをする相手の神様は愛と真実に満ちたお方ですから、ささげものは愛と真実をともなっていることが必須なのです。愛と真実を欠いたささげものなど、神には受けいれられるわけがありません。ところが、この夫婦は代金のある部分を自分の手元に残しながら、これが「あの土地の代金のすべてです」と宣伝しながら鼻高々に差し出したのでした。ペテロのアナニヤに対することばには記録されていませんが、妻サッピラに対することばにはっきりと出てきます。8節。
「ペテロは彼女にこう言った。『あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。』彼女は『はい。その値段です』と言った。」
 夫アナニヤにも当然、同じく「あの土地の代金すべてをささげます。」と言ったのです。しかし、これは、使徒ペテロを欺き、人々を欺いたのではなく、神を欺く行為、聖霊を欺く行為でした。それゆえ恐ろしい結果となりました。
「そこで、ペテロがこう言った。『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。」
 そして、三時間ほど後、妻サッピラはこの出来事を知らずに入ってきて、夫と同じようにペテロに対して嘘を言い、聖霊を欺いて、その結果、神に打たれて死んでしまったのです。
「そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。」5:9,10
 主は何を求めておられるのでしょうか。主は金銭を求めているのでしょうか。もし金銭が必要であるならば、この夫婦がささげた金額はおそらくバルナバに負けまいとして差し出したのですから、相当大きなものだったのです。しかし、主が求めていらっしゃるのは金銭ではなく、あなた自身です。あなたの献げものにこめられた主への真実と愛なのです。ところがアナニヤとサッピラの差し出したものにこめられていたのは、虚栄心と偽りだけでしたから、主はそれを吐き出されたのです。

3. 非常な恐れ

この出来事の結果はなんだったでしょうか。それは、二度繰り返されている「非常な恐れfobos megas」ということです。5節と11節
「 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」
「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。」
信仰生活において「恐れ」には不健全なものと健全なものがあります。不健全な恐れというのは、神に対する嫌悪をともなう恐れです。神は怖いから嫌いだという、神を避けようとする恐れです。「まったき愛は恐れを締め出します」というヨハネのことばが言っているのは、この不健全な恐れについてのことです。
もう一方、信仰生活における健全な恐れがあります。旧約聖書箴言にみる「主を恐れることは知識のはじめである」というのは、健全な恐れです。アナニヤとサッピラの事件がもたらしたのは、主に対する健全な恐れです。健全な畏れでしたから、この事件の結果、兄弟姉妹の心はいよいよ一つになり、また、主イエスを信じる人々の数がますます増えていったのです。12節から14節。
「また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。 ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。」
私たちにも、このような神様に対する健全な恐れが必要です。それは、神に対する深い敬意と愛とをともなった恐れなのです。畏怖といえばよいでしょうか。聖なる畏れといえばよいでしょうか。健全な信仰には、神様に対する愛と畏れとがともにあるものなのです。神様に対する畏れをともなわない愛というのは、神様に対する狎れ狎れしさということになります。それは今日の例のように、神様へのささげものに現れてくるものです。

結び
 私たちは、今年もお正月から、毎月、毎週神様に礼拝をささげ、そして、献金をします。アナニヤとサッピラの事件には、私たちひとりひとりが神の前で、内側を探られる思いがすることです。自分は、どれほどの愛と真実をもってささげものをしてきただろうか。いつのまにか惰性になっていたこと、悪い意味で義務的になっていたことはなかっただろうか。あるいは、虚栄ということも、神に問われたらどうだろうか・・・?考えるほどに、主の十字架の愛と寛容によって赦されてきたのだと思わされないでしょうか。
 私たちは、いったいどれほど罪赦され、どれほど愛されたのか、どれほど私たちが日々生きるために神様がご配慮くださっているのか。そのひとつひとつを覚えて、感謝をもっておささげしましょう。神様に対してなれなれしくなってはいけません。聖なる畏れをもって、おささげしたいものです。神様の愛と真実に応答して、私たちは愛と真実をもってささげたいのです。