苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

天皇誕生日

 本日は天皇誕生日天皇、皇族にも信教の自由が保証されて、悔い改めてイエス・キリストを信じうるようにと祈る。彼らもまた神のかたちとして造られながら、神に背いてしまったアダムの子孫であり、救いを必要としている悲惨な人なのだから。
 「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(第一テモテ2:1−5)
 古代の教会にとって、王とすべての高い地位にある人々はしばしば迫害者であったから、皇帝・王・高官は悪魔の手先でありキリストの敵であるという感情を抱く人々が多かったのであろう。だから、使徒はこうした立場にある人々のために祈ることを勧め、そのように祈ることは神の御前においてよいことであり、神に喜ばれることなのだと説明をしなければならなかった。「私たちの格闘は血肉(=人間)に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)
 今日の日本でも天皇のために祈ることについて、抵抗を感じるキリスト者が結構多いのではないかと思われる。それは、戦前・戦中、天皇制によって教会が迫害された、あるいは呑み込まれていっしょに罪を犯したという歴史があるからである。たしかにあの時代、天皇を中心とする国家体制は黙示録13章に記された獣的様相を呈していたのは事実である。けれども、そうであっても、いやそうであればこそ、天皇が「獣化せぬように」祈るべきなのである。また、彼らも聖なる神の前では救われるべき罪人であるのだから、救いに導かれるように祈るべきなのである。また制度上、彼らは国民ではないから、憲法によって人権を保護されえない立場にあるが、彼らも神の前では人間なのであるから、信じたいことを信じる権利があるはずなのだ。