苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

天皇制の問題点 その1

1.専制君主制への傾き
 民主制とは国民主権を原則とした体制である。そして、民主制には二つのタイプがあって、王を廃して大統領を立てた共和制と、憲法によって王の権限を制限した立憲君主制である。君主制には立憲君主制専制君主制という二つのタイプがあり、いうまでもなく専制君主制は民主制とは相容れない。昭和天皇は、帝国憲法の時代も自分は専制君主ではなく立憲君主として振舞ったと語っていたし、美濃部の天皇機関説でよいと考えていたという。だが、昭和天皇が本音を語っていたとすれば、その意思にもかかわらず、戦前・戦中、わが国は天皇を中心とする全体主義的状態に陥ってしまった。なぜこういうことになったのか。上記の原則をあてはめれば、帝国憲法天皇の権限を制限していたのは事実であるが、主権在民を謳っていなかったからである。つまり帝国憲法国民主権という立憲君主制の基本条件を備えていなかったから、専制君主制に陥ったという単純な話である。立憲君主制のかたちをまねて近代市民国家を装って、国際社会にデビューしたものの、国民に主権がない以上、実態は専制君主制だった。伊藤博文憲法を起草するときに民主的な英国法制ではなく、専制的なプロイセンの法制を模範としたことはよく知られるところである。その意味で、日本国憲法の原理が、主権在民であることは非常に重要な点である。
 共和政における大統領の国民統合の象徴機能に対して、立憲君主制における王の国民統合の象徴機能とはどこがちがうのか。先にも書いたことだが、それは伝統の有無である。大統領は、そのときの選挙民の意思が権威の源泉であるから、小泉人気のようにダイナミックではあっても泡沫的である。他方、立憲君主の国民統合の象徴機能は伝統をその権威の源泉としているので、大統領制に比べて安定感がある。だが、国民主権をないがしろにして専制君主天皇制に引き戻そうとする勢力への警戒を怠ってはならない。これが一つの問題点。

2.天皇家の人々の人権
 現行の象徴天皇制でなお解決していない問題の一つであると筆者が認識していることは、皇室に属する人々が人間扱いされていないということである。彼らには基本的人権が保証されていない。彼らは確かに衣食住は保証されているが、信教の自由、思想信条の自由、居住・移転の自由、職業選択の自由表現の自由、通信の秘密といった人間としての精神的な権利は厳しく制限されている。結局、わが国の体制を維持するために、天皇家の人々は基本的人権を奪われている奴隷である。二三年前だったか、役所の職員と結婚した皇太子の妹さんが、自分は近所のスーパーマーケットに買い物に行くのが楽しくて仕方ないのだと話していた。ラジオはそれを微笑ましいニュースとして流していたのだが、なにが微笑ましいニュースなものか。筆者はあまりにもかわいそうで涙が出そうになった。生まれてこの方、三十歳くらいまで自らの意思でスーパーマーケットに買い物に出かけることすら許されないで生きてきた・・・これでは奴隷より不自由な囚人ではないか。また、今の皇后の美智子さんは、もともとカトリックであったが、当時の皇太子と結婚と決まったとき神道に強制改宗させられたと聞く。国家権力が彼女の信仰を奪ったのである。皇室にも基本的人権が保障される必要がある。だが皇室は国民ではないから、憲法の保護を受けていないのである。
 読者にご存知の方がいらしたら、うかがいたいのですが、天皇家の人々の基本的人権ということをまじめに考えている法学者はいるのでしょうか。

 そしてキリスト教会にとって、さらに深刻な天皇制の問題点、それはもちろん天皇神格化の歴史の問題である。(つづく)