苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

真理の排他性と政教分離ーー小沢発言にちなんで

 11月10日、民主党小沢一郎幹事長が高野山金剛峯寺を訪れ、管長と会談した際、「欧米文化の背景にあるキリスト教を「排他的」と述べ、仏教を「心の広い、度量の大きな宗教であり、哲学だ』と語った」と毎日新聞で報道され、これに対してキリスト教連合会が、小沢氏の発言こそ「排他的」「独善的」で不見識なものだと批判声明を出した。これを受けて小沢氏は16日、「(仏教の世界観では)生きながら仏にもなれるし、死ねば皆、仏様。ほかの宗教で、みんな神様になれるところがあるか。根本的な宗教哲学と人生観の違いを述べた」と説明したと朝日新聞は報道している。
 小沢氏がキリスト教についてはもちろん、仏教についても無知であることは明らかであるし、これは政治的発言なので、反論する気もおこらないが、この際、ちょっと次元は違うけれど、真理の排他性について筆者として思うことをいくつか整理してメモしておきたい。
1.キリスト教
(1)イエス・キリストは「汝の敵を愛せよ」と教え、自らいのちを捨ててこれを実行なさった方である。イエスは傲慢で愛の欠如した独善的・排他的とは正反対の教えと生き方をされた。また、キリストにしたがった聖徒たちの中にも、過去も現在も、敵をも愛する愛の実践者がいることも事実である。
(2)しかし、イエスは「わたしが道であり真理であり命なのです。わたしを通してでなければ、だれも父もとに来ることはありません。」と教えられた。その意味ではイエスは「排他的・独善的」であった。そもそも排他性は、真理のひとつの属性である。排他性をもっているからといって、すべて真理であるわけではないが、排他性を持たない命題は決して真理ではない。キリストは真理であられたので排他的であった。キリストの真理ゆえの排他性には、愛敵という実践が含まれていた。
(3)だが、キリスト教を国教とするような「キリスト教国」の歴史を振り返るならば、十字軍(クルセード)の悪逆非道な振る舞いをはじめとして、愛敵の欠如した独善的・排他的な歩みもあったことは残念ながら事実である。特に、それが教会が剣を持つ国家権力と癒着していたことによって、被害を大きくした。しかも、今なおクルセードといった名称がキリスト教団体で無反省に用いられていることからして、キリスト教界は、歴史におけるクルセードという罪を認識しているとは言いがたい。これは改めなければならない。
2.仏教
(1)仏教は排他的ではないのか?釈迦が生まれたとき、「天上天下唯我独尊」と宣言したと言われる。それが歴史的事実であると言おうとしているのではない。それが善いこととして語られているという事実を言っているのである。シャカもまた独善的・排他的である。先に述べたように、そもそも真理というものは排他的なものなのであるから、それはもしかすると釈迦は真理かもしれないというしるしである。
(2)仏教は死ねばみな成仏すると教えるのか?いな。シャカが作った原始仏教教団では、数々の戒律を守る者が成仏するとした。渡辺照宏『仏教』岩波書店p125によれば、出家者と在家で守るべき戒律は違うが、出家者の場合250の戒律を遵守しなければならないし、女性の場合300以上の戒律を遵守しなければ、成仏はできない。出家者でない在家信者にも、出家者にも共通する守るべき戒律は5つある。<1殺生しない。2盗みをしない。3淫らなことをしない。4虚言を言わない。5酒の類を飲まない。>である。このうち第三項について、出家者は絶対的であるが、在家信者については配偶者は除外される。一生涯これらの戒律を守らねば成仏できないというのであるから、成仏などできる者などいないに等しい。
 以上は小乗仏教においてであるが、究極の大乗型仏教である浄土真宗においても、「南無阿弥陀仏」と言うか、少なくとも言おうと思うかしなければ、成仏しない。真言宗多神教だが、浄土宗・浄土真宗阿弥陀のみが本尊の一神教である。
(3)仏教は平和的で度量が大きいのか。過去の歴史において、仏教も戦争にかかわり、拷問具や武器で敵を殺すことに加担した。大和朝廷が仏教を取り入れたとき、既存の宗教と仏教の勢力が血を血で洗う戦いを起こし、既存の宗教に立つ一族を殲滅した。その後、仏教は朝廷や幕府と癒着して、日本を完全に占領したので、一見、仏教は平和的に見えるかもしれぬが、それは錯覚である。江戸時代5万人と言われるキリスト教徒の生命を奪った弾圧に、幕府の手先として仏教寺院が携わっていたことは事実。
3.政教分離の重要性
 国家の本質は剣の権能である。つまり、武器と拷問具で威嚇し、強制力をもって社会の秩序を維持するのが国家の機能である。また時には、国家は武器による勢力拡張をも行なう。よって、キリスト教会であれ仏教寺院であれ国家と癒着するならば、人殺しにかかわることになってしまい、大規模化すれば悲惨な宗教戦争が行なわれることになる。それは、キリストの愛敵の教え、シャカの慈悲の教えからもっとも遠いことであろう。
 キリスト教会は、政治権力に警告を与える預言者的任務を担っているが、政治権力と癒着することは人殺しや宗教戦争につながることをわきまえて、自ら政治権力をふるう立場から離れることが重要である。剣を持つ政治権力から離れなければ、宗教的真理というものが本質的に持っている「排他性」が猛威を振るうことになる。これが聖書と歴史の教訓である。
「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。』イエスは言われた。『引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」マタイ福音書4章8-10節