苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ジーキルとハイド

 村上博基氏による新訳で『ジーキル博士とハイド氏』(光文社古典新訳文庫)を読んだ。子どものころ、小学館少年少女世界名作文学全集のなかのイギリス編のうちに収められた少年向き版と、やはり小学校高学年のころ金曜洋画劇場かなにかで見たきりだった。夜霧に包まれたロンドンの石畳をステッキをカツカツとつきながら肩を揺らして歩く、まがまがしい雰囲気の男の後ろ姿が、印象に残っている。モノクロームの映画だった。
 作者はスティーヴンスン。あの『宝島』の作者である。両作品はあまりにもイメージがちがっていて、同じ作者の書いたものであることに、今回気づいたと言う具合であった。訳者が指摘するように、なんと映画化が数十回にも及ぶせいか、「ジキルとハイド」ということばが人口に膾炙しているわりに、原作は読まれていないのである。訳者と同じく、私もそのひとりだった。
 それにしても、今回、村上訳を読んでみて、ああ、「ジキルとハイド」という決まり文句もない時代、その結末も知らずに読むことができたヴィクトリア女王を含む1886年の英国の読者たちが、なんとうらやましく感じられたことか。それほど、名手といわれる村上氏の訳文は気取らないけれど風格があり、緩急自在で緊迫感に満ち、展開は謎めいていて、読み進まずにはいられない。
 しかも、ミステリーという大衆文学のおもしろみを持ちながら、読者に投げかける問題はアダムが善悪の知識の木の実を取って以来、ダビデ王も、使徒パウロも、アウグスティヌスも、いや人間であれば誰もが身に覚えのある内なる善と悪の相克という深刻な課題なのである。犬はよくて良い犬、悪くて悪い犬どまりだが、人間は悪魔にも天使にもなれてしまうところが恐ろしい、そんなことばを思い出した。たしかに、「古典文庫」に収録されるに相応しい一冊なのであろう。

小海町 錦秋