苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古典を読むことについて2

 昨日は、信州宣教区のゴスペル・ジャンボリー。とても楽しかった。八ヶ岳山麓は紅葉の盛りである。

 きのう書いてから、昔の記憶をたどってみると、不正確なことを書いたことに気が付いた。あれは、浪人をしていた夏のことだった。京都にある予備校の夏期講座に出るために、二週間ほど下鴨に友人のM君と同室に下宿したことがある。そのとき、同じ下宿屋にひとりの大学生がいた。その大学生が、本棚に数百冊も並んでいる岩波新書を見せながら、その効用を語ってくれたのだった。岩波新書は一定の学問的水準をもって、教養人として必要な知識を提供してくれるものであるから、片っ端から読むといいよと勧めてくれたのだった。私はそういうものかと思って聞いていた。だが、その夜、M君が昨日書いたようなことをどこかで読んだのか、聞いたのかしらないが、聞かせてくれたのである。
 「若い君たちは、古典を読むべきだ。新書のような解説書ではなくて、古典そのものを読むべきなのだ。そうしないと、知識がふえてわかった積もりになるだけで、ほんとうの考える力は身に付かない。」
 それから三年ほどあとだったろうか、師事していた先生からも同じようなことを言われた。私が哲学事典としては何を持っていればいいのでしょうかと質問したときである。「哲学書で用いられている用語というのは、その著者ごとに意味の持たせ方が微妙に異なっているものであるから、その著者の作品を徹底的に読むことによって、用語の意味を自分で確定することに努めることがたいせつなのです。哲学事典はあまり役に立ちません。」と先生はおっしゃって、わかってもわからなくても、テキストそのものに自分の頭で取り組むことの重要性を強調された。むしろ、その本、その著者の索引が辞書となる。
 旅にたとえれば、旅行ガイドを読んだり、google mapをたどっただけで、もうその地に通暁した気分になって、あそこの風景がどうだとか、あそこの名産がどうだとか、あそこの店はどうだとか批評するなということである。旅行ガイドもなにも持たず、自分の足で歩き、自分の肌でその空気を感じ、自分の舌で味わってこそ、ほんものの旅の経験ができる。古典のテキストに呻吟しながら取り組むことの意義とはそういうことなのだと、先生は説きたかったのだろう。
 古典、特に思想的な古典というものは、ある問題が存在すること自体に史上初めて気づいた著者が、先達のハーケン一本残されていない岩場を、苦心惨憺して登っていった足跡である。だから、読者も苦心惨憺して読むときにのみ、その追体験をして、ほんとうに考える力、感じる能力というものが磨かれる。そういう贅沢な読書ができるのは、時間がある若い日々。だから「若い君たちは新書でなく、古典を読むべきだ。」「辞典はあまり役に立ちません。」と言われたのであろう。
 歳を食って、そういう手間のかかる読書はあまりできなくなってしまい、つり革にぶらさがりながら、新書でとりあえずの知識を手に入れることが多くなった。それにこの時代インターネットでWikipediaなど開けば、一通りの情報は入手できる。だがそこで手に入れることができるのは、せいぜい情報にすぎず、知識ですらないことを自覚しておきたいと思う。
 だが、筆者は、少なくとも聖書を読むことについては、二千年間の多くの先達を意識しながらも、やっぱり自分の足でしっかりと歩くように読むように、意識し続けている。今も説教準備にあたって説教集を読むことを自分に対して禁じているのは、そのためである。
「立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」創世記13章17節