苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

天から降られた方―――召天者記念礼拝   

                 ヨハネ福音書3:1-16

1.まじめに生きてきたからこそ  

「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。」1節
 ニコデモは、たいへんまじめで勤勉な人でした。今は、もう年老いユダヤ人の指導者の一人、ユダヤの国会サンヒドリンの議員で、イスラエルの教師と呼ばれるほどの人物でした。当時ユダヤには律法の解釈の違いで、サドカイ派パリサイ派があったのですが、サドカイ派は合理的で妥協的な考え方をする人々で、聖書に書かれた戒めも合理的に解釈しなおしていました。祭司階級を占めるのがこのサドカイ派で、地位は高いのですが民から遠いところにいました。他方、パリサイ派はさまざまな戒めを、きまじめに誠実に守って、その積み上げた功徳によって、神の法廷で評価されるのだという考え方をする人々でした。パリサイ派サドカイ派とちがって民の近くにいる立場の人々でしたから、民からの尊敬を受けていたそうです。ニコデモはその長老級の人でしたから、なおのこと民からの尊敬を集めていたのです。
 けれども、実は、ニコデモには誰にも話すことができない悩みがあり不安がありました。神の道を説いて尊敬されている自分ではあるけれども、実は、自分は神の国に入れるかという確信も平安もないという不安でした。彼の望みは、神の御支配をいただき、神の力によって生き、そして、死をも恐れずに神の法廷にも立てるという確信を得ることです。ニコデモは、膨大な数の律法の細目に通じて、それをことごとく守るように努力してきましたし、民衆にもそのように教えていましたが、それで神様の国に入ることができるという平安はなかったのです。いや、死が近づき、死後に神の法廷に引き出される日が近づいていることを思うと、不安でいても立ってもいられない思いだったのです。だから、彼は「夜」こっそりと、イエス様のもとを訪れて言ったのです。2節。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 今回、召天者記念礼拝においてどこからみことばを説き明かすべきかとだいぶ祈って考えました。召天者はみなさん人生の大先輩ですし、そして戦後の高度成長期に生まれた私とはちがって、戦前・戦中・戦後のほんとうにたいへんな時期をくぐってきた方たちです。それぞれ置かれた立場や状況や職業は異なりますが、共通しているのは、どの方も、まじめに誠実にそれこそ信州風にいえばズクを出し続けて懸命に生きてこられた先輩たちです。この兄弟姉妹たちは、それぞれに晩年になってイエス様と出会って、救いを得られたのです。そのことに思い至って、今年はニコデモのお話をしようと決めたのです。
 人が人として生まれて、誠実に生きるということはとても大切なことであり、誠実に生きる人を私たちは尊敬すべきです。しかし、ほんとうに誠実に生きた人こそ、自分自身のうちを見るときに限界や自分の罪を見出すものなのでしょう。人の前では立派に振舞っていても、実は、自分の内側には、聖なる神の前では恥ずかしくて到底出すことのできない醜いものがあるという現実です。聖書では、それを罪と呼ぶのです。自分の力でがんばって生きてきたけれど、人を傷つけたり、恥ずべきことを思ったり行なったりしてきたことを、神はご存知なのです。なにしろ、神というお方は、聖なるお方であって、そして、私たちの心の底まですべてお見通しでいらっしゃるのです。まじめな人であればあるほど、そのことを認めざるをえません。
 この兄弟姉妹との対話の日々を振り返って見ると、キリストの福音を説く途中でこの兄弟姉妹たちに、「自分に罪があることがわかりますか?」とおたずねしたら、どの方も「わかります」とおっしゃったのです。自分の罪を自覚して、それを認めるというのは実はかんたんなことではありません。言い分だってたくさんあるはずです。けれども、、聖なる神の目を意識しながら、自分の人生を振り返ってみると、確かに人を傷つけたことも、恥ずべきこともあったのだとどの人も率直に認められたのです。

2.新しく生まれなければ

 さて、老ニコデモに対して、主は不思議なことをおっしゃいました。3節「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは率直にいうことができなかったのですが、イエス様はご存知でした。「あなたは神の国を見たいのでしょう。神様の御支配の中に神の力をいただいて生きているという実感を得て、そして、死の向こうの審判をも恐れることなく、その日を迎えられたらと願っていますね。けれども、そのためには人は新しく生まれなければなりません。」と主イエスはおっしゃったのです。
 いったい新しく生まれるとはどういうことなのでしょうか。当然、ニコデモも同じように疑問を感じて、ちょっと面白いことを言いました。4節「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」もちろん、本気でこんなことを言ったわけではないでしょう。そりゃせんせい、いくらなんでも無理でしょうというつもりで言ったのだと思います。イエス様がおっしゃりたいのは、「自分のがんばりでは天国には入れない。神様によって新しいいのちをいただかない限りは神の国には入れないよ」ということです。あなたはまじめな人で、これまで自分のがんばりによって人生の荒波を越え、自分なりの力で今日まで歩んできたことを知っている。けれども、神様の国に入るには、「自分なりのがんばり」では無理なのだ。神は罪ひとつないきよい審判者だ。このお方の法廷で罪ある人間の自分なりのがんばりやまじめさが通用するわけはないのだ、と。
 大事なことは、神によって「上から生まれる」ことなのです。おもしろいことに、「新しく生まれる」ということばは、聖書のことばでは「上から生まれる」とも訳すことのできます。ニコデモが自分のがんばりを下から積み上げて生きてきたのに対して、イエス様は、「上から生まれるのだ、神が上から差し伸べてくださる救いの御手を頼みとするのだ」とおっしゃったのです。その証が洗礼です。5節「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
 人間が、どんなにがんばっても風をあっちに吹かせ、風をこっちに吹かせることはできません。風は自ら思いのままに吹くものです。私たちは生まれながらには、自分の力、自分のズクで自分の人生を切り開くのだという自力救済の考え方で凝り固まっています。しかし、実は、ほんとうは、万物を造り、私たちに生命をくださっている神の思いのままの配剤とあわれみのなかで生かされているのです。この事実を謙虚に認めることが大事です。考えてみれば、私たちが生まれてきたということ、そして、物をしゃべるようになり、やがて学校に通い、おとなになるまでに、私たちはどれほど神のお世話になっていることでしょうか。命そのものを神がくださいました。そして、親を与えてくださいました。空気も水も食べ物もすべて恵んでくださって、私たちは恵みによって生かされてきたものです。努力することは大事なことですが、それだからといって、自分のがんばりだけで生きてきたというのはとんでもない驕りであり、傲慢なのではありませんか。天から注がれる雨も神の恵みです、毎日上ってくる太陽も創造主の恵みです。この創造主に、日々感謝して生きること、恵みによって生かされていることを感謝すること、これが人間として筋の通った生き方です。自力で頑張り、頑張った分傲慢になって、人を見下したりうらやんだりする不自由な生き方ではなく、毎日、神様の恵みによって生かされていることを感謝する自由に満ちた生き方、これが救われた生活であり、神の国の民の生き方です。これはイエス様を信じて水と御霊によって新しく生まれるときに実現することです。

3.天から下られた救い主

 イエス様は、私たちにその神の愛の御支配の中に行き、天国にまで行くために、この世界に来てくださったのです。
 中国にはいった宣教師が書いたという一つのお話を読んだことがあります。儒教や仏教のさかんな地の人々に、なんとかわかりやすくイエス様の救いを説明しようとしたのです。
 ある人が穴にまっさかさまに落ちて、大怪我をして穴の底で呻いていました。すると、そこに豊かにひげをたくわえた老人た通りかかりました。男は、穴の底から老人に呼びかけます。「どなたですか。助けてください」。すると、その老人は、「わしは孔子じゃ」と答え、あれこれとその穴からの上り方について、がんばり方について立派な教えをしてくれたのです。しかし男は叫びました。「でも、私は大怪我をして、脚が利きません。登ること自体できないのです。」すると、孔子は首を横に振って去っていきました。
 彼が落胆していると、またひとりの人が穴の上を通りかかりました。男は叫びました。「どなたでしょうか。助けてください。」すると、その人は言いました。「わたしは釈迦である。」すると、男は叫びました。「私は穴に落ち、けがをして、上ることができません。助けてください。」すると、釈迦は言いました。「そもそもそなたの苦しみは、穴から出たい、助かりたいという欲望が原因なのだ。その欲望の原因は、もしかしたら穴から出られるのではないかという誤った認識のせいだ。それゆえ、まず穴からは出ることはできないという現実をありのままに悟ること、あきらめることが肝要だ。そうすれば、助かりたいという欲は去り、欲が去れば苦しみは去ろう。」
 男はほんとうに絶望しました。もう夜も更けてきます。すると、穴の上をもうひとりの人が通りかかりました。「どなたか存じませんが、助けてください。」すると、その人は穴の上から、自ら危険を冒して血まみれになって穴の底まで降りてきたのです。そして、彼の怪我の手当てをすると、彼を背中に負って、一歩一歩自らの足からも手からも血を流しながら、穴の上へと運んでくれました。この第三番目の人、これこそイエス・キリストさまです。イエス様は私たちのどうにもならない罪の現実のなかに入ってきてくださって、私たちの罪を背負って、また私たちを背負って救い出してくださるお方なのです。13節と16節。
 「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。・・・神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
 だれひとり自力の道徳的努力で天に上った者はいないのです。天の聖なる神の基準はあまりにも高くて、罪ある私たち人間の及ぶところではないのです。私たちは、この自己中心・自己本位というどうにもならないのです。そこで、神は、私たちの罪の解決のために、ひとり子を地上に送ってくださいました。イエス様は、地上にこられて愛のご生涯をまっとうされてのち、私たちの罪の呪いを引き受けて十字架にかかって死んでくださったのです。私たちの罪の呪いを取り去って、神様の御国に招いてくださるためでした。

結び
 先に天に召された七人の兄弟姉妹たちも、ひとりひとりが神さまの前における自分の罪の現実を認めて、「神様にごめんなさい」と申し上げて、「イエス様、私の罪を引き受けてくださってありがとうございます。」と申し上げて、天に召されて逝かれました。私たち一人一人も、その歩みにならいたいものです。
 故人を偲んで記念行事を行なったり、お墓を守ったりすることも大切でしょう。しかし、祖先を大切にするとは、祖先を神としてたたりを恐れて崇拝することではなく、彼らが成し遂げ得なかった尊い遺志を受け継ぐことです。パスカルは故人を追悼する記念会についてこう言っています。「故人が、この世におられるなら、きっと、私たちにして欲しいと思うことをしなければならない。」と。
 主イエスを受け入れて神の御許に行ったあの兄弟姉妹は、地上にいるあなたに今、何を望んでいらっしゃるでしょうか。

祈り