苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

パスカル「沈黙した宇宙空間の一隅に」

「人間の盲目と悲惨を見、沈黙した宇宙を見つめるとき、人間が何の光ももたずただ独り放置され、いわば宇宙のこの一隅に迷い込んだように、誰が自分をそこに置いたのか、自分は何をしにそこへ来たのか、死ぬとどうなるかをも知らず、あらゆる認識を不可能にされているのを見るとき、私は眠っているあいだに荒れ果てた恐ろしい島に連れてこられて、目覚めてみると、そこがどこなのかわからず、そこから脱出する手段もない人のような、恐怖におそわれる。」(パンセ L198、B693)
 これは宇宙空間を指すととともに、中世の封建的社会秩序(コスモス)の崩壊のなかで一人一人の人間がその秩序から放り出されて孤立していく、そういう時代文脈のなかで理解されるべきことではないかとも思われる。中世における人間を、ある学者は浮き彫りとしての人間と表現した。大きな石に施された多くの人間が浮き彫りにされている、そういう人間像が、封建的秩序のなかに自分を位置づけることができた中世的人間である。それが、教会の堕落・十字軍の失敗・ペスト蔓延・封建的秩序の崩壊の結果、近世にはいると人間は大きな石の浮き彫りから彫りだ出されて立像のようになって、一人一人が孤立した。
 こんな説明はかえって陳腐か。パスカルはもっとずっと先を見ている。見て慄いているようにも見える。もっずっと先というのは大革命時代の終わりころ、すべての存在を原子の塊に還元してしまう無神論唯物論が出現することである。原子という等質の無限の中で、人も、獣も、花も、機械も、石ころもみな呑みこまれて、すべてが無意味になってしまう。
 現代はさらに下卑た時代になってしまった。すべての存在はカネに換算されてしまうという、「カネという等質の無限」のなかで、人は天空に輝く星星への感動も、小さな花の可憐さにも驚く心を失い、そして自分が人として存在する意味も、見失ってしまった。