苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

アンセルムス『プロスロギオン』― 考えること、祈ること、賛美すること

 アンセルムスは、スコラ哲学の父と呼ばれる。スコラ哲学といえば、神ご自身を忘れてつまらぬ言葉遊びをしている哲学者・神学者という色眼鏡をもって見られがちである。だが、アンセルムスの『プロスギオン』を味わって読んでみれば、そうかんたんに一蹴できない。たしかに、哲学的な思弁をたどって行くことはなかなか面倒ではあるのだけれど、アンセルムスにあっては、論じることと祈ることとが一体となっているのである。神に向かって祈りつつ考え、論じつつ賛美して、その叙述が進んでいく。
 アンセルムスの神の存在証明というのは、しばしば本体論的証明と呼ばれる。それは神の本性から、神の存在を証明する試みである。神が神であられる以上、神が存在することは必然であるという証明である。そのまま引用してもよいのだが、少し整理して趣旨を説明すると・・・
 存在には、<観念の中にしかないもの>と、<観念の中にあり、かつ、実在するもの>との二種類がある。<観念の中にしかないもの>とはたとえばペガサス。<観念の中にあり、かつ、実在するもの>とはたとえばサラブレッド。
 ところで、<観念の中にあり、かつ、実在するもの>は、<観念の中にしかないもの>よりも偉大である。
 神よ。あなたは、何ものにもまさって偉大なお方であられます。ゆえに、あなたが神であられる以上、あなたは観念の中にのみあって実在しないはずはありえず、観念の中にあり、かつ、実在するお方なのです!
 ここでアンセルムスは、実は、「神が何者にも勝って偉大なお方であられる」という信仰を前提としている。この信仰を前提としてこそ、この証明は成り立っている。信じるところを祈りつつ理解しようと努め、知性をもっても神を賛美する――これがアンセルムスの神学であった。祈りを忘れて神学をすることがないように、とアンセルムスから戒めを受けた。
 「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」(Ⅰコリント14:15)