苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

バプテスマ

                       使徒2:37−47

                      2009年10月4日 小海主日礼拝

 けさは初代教会のバプテスマのようすに学びます。

1.バプテスマ

 「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』」使徒2:37−39

 使徒ペテロが、あなたがたが十字架につけて殺したイエスこそ、神が遣わされたメシヤなのだという宣言を聞いて、ユダヤ人たちはとんでもない罪を犯してしまったという思いで、ペテロに「どうしたらいいのでしょう」と質問しています。
 そうするとペテロは「悔改めてバプテスマを受けなさい」といいました。なぜか、それは主イエスのご命令であるからです。主イエスは復活なさってから、大宣教命令でおっしゃいました。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」
 使徒ペテロは主イエスのご命令にしたがって、罪の赦しのために悔い改めて主に立ち返り、洗礼を受けることを勧めているのです。
 ここには、<悔改め→バプテスマ聖霊を受ける>という順番が記されています。意外な感じがしなくもありません。聖霊を受けたからイエス様を信じて悔改めることができ、そうして洗礼を受けるという順序ではないかとも思われるからです。どのように理解すべきでしょうか。たしかに「聖霊によらなければ誰もイエスを主と告白できない」とありますから、聖霊を受けたからこそ彼らは悔改めたわけですが、きょうの箇所で<悔改め→バプテスマ聖霊を受ける>となっているのは、おそらく、「さらに聖霊に満たされるでしょう」という意味であると理解するのが適切だと思われます。主の命令にしたがって、バプテスマを受けたなら、いっそう聖霊に満たされて確信あるキリスト者となることができます、名実ともにキリスト者となれますと言っているのでしょう。
 日本には、世界でもとても特殊な現象として、無教会主義の人々がいます。彼らは聖書研究は熱心で、立派で有益な参考書を書いています。けれども、無教会の人たちは形式をとくに嫌いますので、イエス様が私たちのために定めてくださった洗礼や聖餐まで否定してしまうのは残念なこと。名と実でいうと、実だけあればよいのであって、名などいらないという立場です。でも、エペソ書にならって主との関係を結婚にたとえるなら、無教会主義は愛さえあれば婚姻届はしなくていいというような危うさを感じてしまいます。
 バプテスマを受けて、聖霊に満たされてこそ、クリスチャン生活の安定と醍醐味というものを味わうことができるのです。聖霊に満たされるとき、人は行動としては、主を褒め称え、福音をあかししたくなります。聖霊に満たされるとき、その品性としては、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制という実が結びます。そして、教会との関係でいうと、御霊に満たされるとき、その人には教会つまり主にある兄弟姉妹に対する愛がわきあがってくるのです。なぜなら、クリスチャンはお互いに同じ御霊を受けているからです。
 
2.子どもたちに、遠くの人々に

 もう一つ39節にバプテスマ聖霊の約束について大切なことが記されています。
「なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
 この約束、つまり、悔改めてイエス・キリストを信じる者は救われるという約束は、子どもたちと、遠くにいる人々に与えられているということです。

(1) 子どもたちに
 イエス・キリストにある救いは、単に個人のものではありません。時々、信仰というものはあくまでも個人のものであって、家族とか親戚とかは関係ないという個人主義的な考えを持つ人がいます。そして、子どもが何を信じるかということは、子ども本人が自由に決めればよいことであって、親は子どもに信仰を伝えるようなことはしない、それは憲法のいう「信教の自由に反する」などという考え方をする人がいたりするのです。しかし、このような「信教の自由」についての考え方は、完全な誤解です。
 まず、憲法とはなにかについて。そもそも憲法というものは、国が国民を縛る規則ではなく、国民が国を縛る規則です。これを立憲主義といいます。大辞林には立憲主義は「憲法によって支配者の恣意(しい)的な権力を制限しようとする思想および制度。」と定義されています。それは日本国憲法では99条に明確に表現されています。

第99条 [憲法尊重擁護の義務] 
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護(ようご)する義務を負ふ。

 次に、信教の自由という理念ですが、憲法でいう自由とは、「国家からの自由」なのです。「信教の自由」というのは、国家権力が、戦前のように「おまえは日本人だから国家神道を信じなさい」と強制して縛り付けてはいけない、国民は信仰にかんして国家の束縛らか自由だということを定めているのです。憲法20条は、公立の学校では、生徒たちを神社参拝に連れて行ってはいけないし、村や町の公費を神社の維持に使ってはいけないということを定めているのです。

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 「信教の自由」とは国が国家神道の国民教育をしてはいけないという定めであって、国民が自分の子どもに信仰教育をしてはならないという意味ではありません。逆に、国民がそれぞれの確信にしたがって自分の子どもに信仰教育ができるためにこそ、国家は国家神道の教育をしてはならないと定めているのです。

 聖書をよく読めば、首尾一貫して、神様は家族という単位を大切になさることに気づくでしょう。ノアの家族、アブラハムの家族、ロトの家族・・・と神様は家族を大事に取り扱われるのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とあるでしょう。
 特に、イエス・キリストにある救いの約束は、あなたがただけでなく、あなたがたの子どもにも与えられているのだとみことばが語っています。聖書的なクリスチャンは、親から子へ救いを伝えること、これはすばらしいことであり、義務でもあるのです。「その約束は、子どもたちにも与えられている」のですから。
 さらに、これは福音は世代を超えていくのだということに敷衍できましょう。つまり、親から子へという方向だけでなく、子から親へ、孫から祖父母へということです。小西さんという方がいました。この方に私は何ヶ月か通って聖書の話をして、福音をのべつたえました。けれども、みことばの学びの結びとしてイエス様を主として受け入れましょうと勧めたら、頑として聞かなかったのです。けれども、小西さんが病気になったとき、お孫さんがおじいちゃんに言ったのです。「おじいちゃんもイエス様を信じて天国に行こうよ」。それで、小西さんはイエス様の福音を受け入れました。キリストの福音の約束は、世代を超えて広がっていくものです。

(2) 遠くの人々に
 もうひとつは、この約束は「遠くにいる人々に与えられているということです。」とある点です。「遠くにいる人々」とここでペテロが言っているのは、「あなたがたユダヤ人だけでなく、世界のあらゆる民族国語の人々」という意味です。ですから、この中には私たち日本人も含まれているのです。実際、このペンテコステの日に、ユダヤ人である彼らが聖霊に満たされたとたんに、さまざまな外国語で福音を語ったのは、そのしるしだったのです。
 福音は世代を超えて、かつ、民族国語の垣根を越えて私たちのところにのべつたえられて来ました。今度は、私たちがのべ伝える番です。またイエス・キリストの福音は、遠くの人々に与えられています。世界のあらゆる民族、国語にイエス・キリストの救いは与えられているのです。同盟教団から宣教師がカナダ先住民、台湾、モンゴル、タイ、パプアに派遣されています。

3.この世から神の民のうちへ

 第三にバプテスマを受けた人々が、社会的な立場の変化について注目してみましょう。

「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい』と言って彼らに勧めた。
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」使徒2:40−41

 ここには一つの方向が書かれています。つまり、人はバプテスマを受けるとき、「この曲がった時代から救われて、主の弟子とされ神の民のなかに入れられる」ということです。イエス様を信じるということは、単に個人の心の中の変化を意味するだけではありません。確かにスタートはその人の心のうちの変化からなのですが、その変化は全人格的なものであって、さらに社会的な立場の変化と広がるのです。キリスト者は「食べるにも飲むにもなにをするにも、神の栄光のためにする」のですから、当然のことです。
 聖書は「この曲がった時代」といいます。神様と神様のみこころをないがしろにして、ただ人はお金のこととか、自分の欲望の実現しか考えていない、そういう時代をさして曲がった時代だとおっしゃるのです。他の聖書の箇所の表現でいえば、この曲がった時代というのは、やがては滅びてしまう「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」という「この世の欲」がすべてという時代のことです。人は本来神の栄光をあらわすために造られたのに、神様を忘れてただひたすら「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、何を見るか、どんな車に乗るか、どんな家に住むか」を追い求めて、それを誇りとするような、欲に追い回されて生きている、それが曲がった時代です。
 悔改めてイエスを信じてバプテスマに浴する時、この曲がった時代から救われるのだとおっしゃるのです。悔改めるとは、心を変えることです。価値観が根本的に転換することです。自分の欲の実現が目的だったのが、本来の人間としての「神の栄光をあらわす」生き方を回復することができるのだというのです。
 それは、主の弟子団、神の家族に加えられて生きていくことによってです。私たちは、そんなに強い者はありません。ともに生きている人々の環境の影響を必ず受けてしまうものです。曲がった世代の中にいるならば、曲がった世代の価値観に染まってしまうのです。ですから、神様はバプテスマによって私たちを曲がった世代から救い出して、神の家族である教会に加えてくださったのです。
 主イエスはおっしゃいました。「御覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マルコ3:34,35)神のみこころを行なう、神の家族のうちに入れられて、そしてここからこの世に私たちは派遣されていきます。そして、そこでイエス様の愛を証して、またそこから滅び行く愛する人たちを連れて帰ってくるのです。