「ナムミョウホウレンゲーキョウ、ナムミョウホウレンゲーキョウ、ナムミョウホウレンゲーキョウ、ナムミョウホウレンゲーキョウ、ナムミョウホウレンゲーキョウ、ナムミョウホウレンゲーキョウ、ナムミョウホウレンゲーキョウ、ナムミョウホウレンゲーキョウ・・・・とにかく毎朝題目を百回となえなさい。そうしたら願いがかないますよ。」こんなことを兄の友人の創価学会の人に教えてもらったことがある。主イエスが言われたのはまさにこのことだろう。「 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」(マタイ6:7)
なぜあんなふうに同じ言葉を繰り返すのだろうか?本来、題目の意味は「法蓮華経に帰依します」ということなのだが、それを繰り返すのは、意味の世界を超えて、マントラ、まじないとして唱えているのであろう。大集会で会衆がいっせいに「ナムミョウホウレンゲーキョウ、ナムミョウホウレンゲーキョウ、ナムミョウホウレンゲーキョウ、ナムミョウホウレンゲーキョウ、ナムミョウホウレンゲーキョウ・・・」と唱えだすと、そらおそろしい迫力だろう。異邦人の祈りにおいては、知性的理解を超えて情動が盛り上がることが大事なのである。また回数が大事なのである。
主イエスは、そういう同じ言葉をやたらと繰り返す異邦人風の祈りを禁じられた。なぜなら、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(マタイ6:7)まず回数をたくさんいうことで徳が積めるという考え方がまちがっている。そうではなく、天父に信頼して祈ることが肝心である。祈りの本質は、天の父との人格的な対話である。私たちは、人格を前にして、同じことばをただただ繰り返すようなことはしないではないか。意味なく同じことばを繰り返すのは、相手を機械か法則のような非人格としてみているからである。仏教にはもともとは人格神はないから、そういうことになるだろうけれど、私たちは人格ある天の父に向かって祈るのである。たとえば、息子から「ギター買ってくれ。ギター買ってくれ。ギター買ってくれ。」などと10回も連呼されたら、当初の買ってやりたいという気持ちも失せる。まるで立候補者の名をひたすら連呼する選挙運動の車だ。同じ強調をするにしても、もうすこし工夫があったほうがよい。
これは賛美歌の歌い方にもそのまま適用されよう。聞いていただく相手である生ける人格である神を意識するならば、同じ言葉をただ繰り返すことは無意味なだけでなく、失礼でもあることがわかるだろう。格別、主の尊い御名をとなえるときは、恐れと感動をもって唱えたい。若い日、愛するひとの名を口にするだけで、胸がどきどきしたという経験を持つ人もいるだろう。まして、聖なる主の御名である。ハレルヤのヤは、ユダヤ人が口にすることさえ恐れを抱いた主の御名である。大事にしたい。また新しい賛美歌を大きな集会で用いるときも、やたらと繰り返すことは慎みたい。盛り上がりとか陶酔ではなく、天の父への信頼と愛がたしかなものとなることが肝心である。