苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

悔改めなさい

使徒2:14−36
2009年9月13日 小海主日礼拝

1. 聖霊の注ぎ――ヨエルの預言の成就
 ペンテコステの日、聖霊を受けたイエス様を信じる人々は、突然外国語で話し始めました。何事が起こったのかと集ってきた人々は、驚き呆れました。イエスの弟子団に悪意を持つ人々は、「やつらは酒を飲んで酔える者たちだ」と嘲りました。そこで、使徒ペテロは、そうではない、ダジャレではありませんが、これは旧約の預言者ヨエルの預言の成就なのだと説明するのです。
 ペテロが取り上げた旧約聖書の預言は、ヨエルの預言とダビデの預言でした。まず、ヨエルの預言から。このヨエルは紀元前900年頃の人です。
「『神は言われる。
  終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
  すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
   その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
  すると、彼らは預言する。」(2:17−18)
 ヨエルの預言の趣旨は、終わりの日に神様がご自分の霊を、性別・年齢・身分にかかわらず、すべての神の民に注ぐということでした。旧約時代には、祭司や王や預言者といった特殊な職務につく人だけに注がれた聖霊が、終わりの日「あなたの息子や娘、青年、老人、、しもべ、はしため」といった誰にでも注がれると言うのです。だから、実際、今、このペンテコステに男女年齢身分を問わず信者がみんなで福音を外国語で語っているのですよというわけです。
 「終わりの日」というのは、待ち望まれたメシヤ救い主が来るときです。旧約時代を収穫の準備をしている種まき、草取り、水まきの期間であるとすると、世界中の畑からたましいの収穫が始まるときというのは「終わりの日」です。「終わりの日」は、イエス様が来られた二千年前に始まって再臨の日までのことです。
 この終わりの日、使徒たちだけでなく、宣教師や牧師といった職務についている人々だけでなく、息子や娘、おじいちゃんやおばあちゃん、女中さんも下男もみんな聖霊を注がれて、神様のことばを語ると言われたのです。事実、それが今ここに成就していますよというわけです。このようにして世界宣教が始まりました。
 
2.神の計画――イエスの十字架の死と復活はダビデ契約の成就

(1) イエスの死と復活の預言
 さて、使徒ペテロは、聖霊が注がれて不思議なことが起こったために集ってきたイスラエル人々に向かって、実に堂々とイエス様の福音を語り始めます。あのイエス様のことを知らないと三度も言ったペテロと同一人物とは思えません。聖霊を注がれたとき、弱いペテロは強くなりました。聖霊は「力と愛と慎みとの霊」です。
ペテロはナザレの人イエスは、あなたがたの間で数々の奇跡を行なったことを思い出させました。盲人の目を開き、足のなえた人を立たせ、五千人もの人々に五つのパンと二匹の魚で満腹にさせ、吹きまくる嵐をことばをもって静め、死んでしまった青年や娘をことばの権威でよみがえらせたイエス様を思い出しなさいというのです。これらの奇跡をもって、イエス様はご自分が神の御子であることをあかししたのです。22節。
 「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。」(2:22)
 「けれども、これほどまで明白なしるしを見せてもらいながら、あなたがたユダヤ人は神の御子イエスを受け入れなかったではないか。それどころか、神の御子を十字架につけて殺してしまった。」とペテロは指摘します。けれども、あの出来事は、実は神のご計画と予知によることだったのだとペテロは述べるのです。
「 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」(2:23)
ユダヤ人たちはたしかに自らの意志で神の御子イエスを拒絶して、十字架につけたのです。自分の意志のないロボットではありませんでした。けれども、神の知恵と神のご計画は不思議です!人間の勝手気ままな罪深い行動をこえて、それらをも逆手にとって、救いのわざを成し遂げられました。造り主である神は、イエスの十字架の苦しみと死をもって人類を罪から救い出すご計画だったのです。御子イエスの十字架の苦しみと死を、私たち罪ある者たちの贖いのためです。私たちは神様の前で罪があり、地獄の刑罰を受けるにふさわしい者なのですが、その刑罰をイエス様はあの十字架の上で身代わりとなって受けてくださいました。そして、イエス様はすべての刑罰を受け終わったので、死んで三日目に死の苦しみから解き放たれ復活されました。
「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(2:24)

 しかも、このイエスの十字架の死と復活という出来事は、およそイエスの1000年前にダビデが預言していたことです。旧約聖書詩篇です。
ダビデはこの方について、こう言っています。
『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。
 主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。
さらに私の肉体も望みの中に安らう。
あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのを
お許しにならないからである。
あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』」(2:25−28)
 ダビデ詩篇で歌ったのは、彼自身のことではなくて、ダビデの家系に生まれることになっているメシヤ、キリストのことでした。実際、ダビデは死んでしまってお墓もあるのです。
「兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(2:29−32)
 イエス様が十字架にかかって死なれたこと、三日目に死者のなかからよみがえられたことは、たまたま起こったことではありません。ユダヤ人たちが勝手に行なったことに見えながら、実は、歴史を支配される神様の遠大なご計画に基づいたことなのです。

(2)イエス聖霊を注いだ
 紀元前1000年頃のこと、神様はダビデに約束を与えました。それは「神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせる」ということでした。ダビデの子孫から出る偉大な王は、神の家を建て、その王国は永遠に続くというのです。2サムエル7:12−13
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」
 この約束はダビデ王の次のソロモン王で成就したのかと思われましたが、ソロモンは偶像崇拝の罪を犯して結局王国は分裂して成就しませんでした。そうして、ダビデへの神様の約束の成就はずっと持ち越されてきて、ダビデの家系に生まれた御子イエスの登場によって、ついに成就したのです。それは、十字架にかかって死んだイエス様は復活して、父なる神の右の王座に着座されて、天から聖霊を注ぐことによって、地上に「神の家」としての教会をお建てになったのです。「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」(2:33)御霊が注がれて神の家が建てられたことについて、ペテロとパウロは次のように言っています。
「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:22)
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(1コリント3:16)
「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」(1ペテロ2:5)

3.神の御子を十字架につけた罪

 異邦人である私たちにはいささかわりにくい説明ですが、ペテロは旧約聖書の預言をもとに、①イエス様が、神が遣わした救い主であること、そして、②そのイエス様が今、預言どおり私たちに聖霊を注がれたのだいうことを立証したのです。
 私たち人間は、未来に起こることについていろいろ予測しても、それを正確にあからじめ知ることはできません。明日やあさっての天気のことですら、あたったりあたらなかったりです。まして900年後、1000年後に起こることがらなど正確に知るよしもありません。それにもかかわらず、旧約聖書にしるされた預言が、成就したのはなぜでしょうか。それは、聖書がまぎれもなく歴史を支配する創造主である神が啓示なさったことばであるからです。
 そして、天地の創造主である唯一まことの神が、イエス様こそ、まことの救い主であるとあかしなさっているのです。イスラエル人たちは、神が派遣されたイエス様を十字架の辱めにあわせて殺してしまったのです。
「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(2:36)
 イスラエル人たちは尊い神の御子を拒絶し、ついには十字架に磔にしました。なんという恐ろしい罪でしょうか。彼らの中には少し前、総督ピラトの官邸における裁判のときに、イエスを釈放しようとするピラトにむかって「十字架につけろ。イエスを十字架につけろ」と何度も叫んだのです。「ああ、私たちはとんでもないことをしてしまった。」という恐怖と慙愧の念に捕らえられて、彼らは使徒たちに向かって「いったい私たちはどうしたらいいのでしょう?」と尋ねたのでした。

結び 適用
 では、神の御子を十字架に磔にしたという罪は、ただ2000年前のイスラエル人だけのものでしょうか。聖書はもうひとつの事実を告げているのです。神の御子イエスを十字架にはりつけにしたのは、実は、あなたなのです。あなたの罪が、神の子イエス様を十字架につけたのです。
 「どうしたらいいのでしょう?」という問いに対して使徒はいいました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
 今、もしあなたが、神様の前で自分は罪ある者であり、イエスを十字架につけたのは私なのだと悟り「どうしたらいいのでしょう」とおっしゃるならば、お答えします。「悔改めなさい。イエス様をあなたの罪からの救い主として信じてバプテスマを受けなさい。そうすれば、聖霊を受けます。」