苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

メモ10 死刑制度の是非 その3

 ローマ書13章4節が、少なくともその時代における死刑制度を容認していた事実は認めざるを得ない。しかし、それが積極的承認であって時代と文化を超えた通則として語られているのか、それとも、それは消極的容認に過ぎないものなのか。文脈からは、二通りの答えの可能性がある(メモ9参照)。そこで別方面から考え直してみる。
 そもそも「上に立つ権威」つまり当時でいえばローマ帝国統治機構は、実際に、神の正義の復讐を代行しうる信頼に足るものだと聖書は積極的に述べているのかということである。ローマ書13章1−7節の記述にかぎってみれば、確かにかなり積極的なニュアンスである。ローマ書は彼らは神のしもべとして、善を奨励し、悪を懲らしめているのだと言われているからである。
 けれども、もう一方で、新約聖書の他の箇所は、この世の権力者たちがいかに不公正で保身に走りがちな者たちであるかということが、相当強調して記されている。たとえば福音書におけるイエスの裁判にかんして、ユダヤ最高議会が偽証者を立ててイエスを有罪にしようとしたことや、ローマ総督ピラトが保身のために裁きを曲げたことが克明に記されている。さらに黙示録13章においてはローマ皇帝が竜(サタン)に権威をもらった獣として描かれている。こうしたところを見ると、これらの上に立つ権威はとうてい神の復讐の代行者とは言いがたい。
 したがって、確かに神は上に立つ権威に死刑の権限を委ねてはおられるのではあるが、これを無制限に容認しているわけではないと判断すべきであろう。上に立つ権威は神のしもべであるとはいえ、間違うこともあり、時には暴走することさえもあるものなのである。それゆえ適切に司法を審査し、制限をする仕組みが必要であることになる。