苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖霊を迎えるために

使徒1:12-26
2009年8月30日 小海主日礼拝


1.聖霊

使徒の働きThe Acts of the Apostles」は「聖霊の働きThe Acts of the Holy Spirit」です。イエス様が父に願って、新約の時代に注いでくださった聖霊は、神の賜物であり、初代教会にいのちと力を吹き込み、宣教のために力を与えてくださいました。それは、今日の小海キリスト教会にとっても同じことです。聖霊のくださる力なくして、この小海キリスト教会は誕生することはありませんでしたし、聖霊の満たしなくして、今後の南佐久郡における宣教もありえないことです。
 使徒の働き1章、2章にペンテコステの事件が記されているとはいっても、聖霊というお方は、新約の時代になって初めて登場したわけではありません。今日は、この点を最初に確認してから、本文に入ってまいりたいと思います。聖霊は聖書において創世記の第一章にすでに登場されます。聖霊は父とことばなる御子とともに、万物の創造のわざを行なわれました。創世記1:1−3「 初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」とある、3節の「ことば」は御子であり、2節の「神の霊」とはいうまでもなく聖霊のことです。聖霊は、万物を創造し、茫漠としてなにもない世界に万物を秩序立て、生命をお与えになったのです。聖霊はこのようにすべてのものに生命をお与えになり、秩序なきものに秩序をお与えになるお方なのです。わたし達が住む地球の営みにおいて、春夏秋冬が訪れてすべての生命が生かされているということも、聖霊のお働きなのです。詩篇に「あなたが御霊をおくられると、彼らは造られます。また、あなたは地の面を新しくされます。」(詩篇104:30)とあるとおりです。
 聖霊のもう一つの働きとは、罪からの救いに関するものです。新約聖書、特に使徒の働きに出てくる聖霊の働きは、おもにこちらの罪からの救いにかかわる働きです。聖霊は、私たちに力を与えて主をあかしさせ、悔改める人に新生の恵みを与え、新生した人に御霊の実を結ばせてキリストのかたちに似た人として成長させてくださいます。そして最終的には新しい天と新しい地の創造が救いでありますから、救いの恩恵と創造の恩恵とはひとつになっていきます。

 また、聖霊について知っておくべき、もう一つ大切なことは、今さっきから聖霊を「お方」と呼びましたように、聖霊は人格であられるということです。そういう意味では聖霊でなく、聖霊様とお呼びすべきかもしれません。聖霊様が単なる力やエネルギーでなく、人格であられることを知ることはとても大切なことです。というのは、人格である方を、人格として扱わないで、モノのように扱うことほど失礼なことはほかにないからです。感情も意志も知性もある人を、まるでモノのようにあつかうことは、たいへん失礼なことにあたります。聖書のなかには、聖霊が油とか炎とか水とか風とかにたとえられることがありますが、それは聖霊が物質であるという意味ではありません。飄々とした人を風のような人とか、激しい性格の人を炎のような人というような意味で、聖霊はいろいろなものにたとえられているのです。聖霊は人格なのです。ですから、新約聖書には、「聖霊が語られた」とか「聖霊を悲しませてはいけません」といった表現が出てきます。
 以上のことを確認した上で、今日の聖書箇所に進んでまいりましょう。

2.心合わせて祈る
 
 主イエスが、大宣教命令を実施する伝道旅行に出かけていく前に、「待ちなさい」とお命じになって、天に上って行かれたので、弟子たちはオリーブ山からエルサレムに戻って待っていました。この昇天の出来事は安息日(今でいう土曜日)であったのでしょう。それで「安息日の道のり」だったことが確認されています(12)。
 彼らがエルサレムに戻って入った家は、屋上の間アパルームと呼ばれていますが、恐らくは、弟子団のいつものエルサレムでの拠点青年マルコの家であったと思われます。15節に「120名ほどの兄弟たち」とあります。これほどの人数を収容できるのですから、家というより立派なお屋敷ですね。ここで主イエスは、最後の晩餐を弟子たちと取られたのでしょう。ここに集った使徒と呼ばれた弟子たちの名が丁寧にリストアップされています。「この人々は、ペテロとヨハネヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。」
 なぜこんなふうに一人一人の名が上げられているのでしょうか。・・・それは、主イエスがお選びになったのが十二人であったのに、ここでは十一人しかいないということ、イスカリオテ・ユダが欠けているということに筆者が恐ろしさや痛みを感じているからではないでしょうか。
さて、彼らはこのアパルームに集ってなにをしていたのでしょうか。「父なる神の約束を待つとはどういうことであろうか?」と旧約聖書のことばを考えながら、互いに神学的議論をしていたのでしょうか。あるいは「僕はヨーロッパに行く、彼はアフリカだな。彼はインドに」などと今後の伝道計画を立てていたのでしょうか。あなたが十一人の弟子の一人であったら何をしていたでしょうか。彼らは「みな心を合わせ、祈りに専念していた」(1:14)のです。
 聖霊は御子が父に向かって願い、送ってくださった神の贈り物です。神からの恵みの贈り物に対する応答、それは心を合わせて祈るということなのでした。神の御前に礼拝をささげ、心一つにして祈ること、これが聖霊に満たされるのに大切なことの第一です。一人で部屋の奥にはいって静まって祈ることはもちろん大事なことです。ですが、同時に、主イエスはともに祈ることの大切さも教えてくださいました。
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18章19−20節)
 わたしたちが聖霊に満たされて神の栄光をあらわして生きるために、わたし達が心一つにして祈ることはとてもたいせつなことなのです。御霊はみことばとともに働き給うのですから、神学の勉強をすることはたしかに有益なことです。けれども、神学をもって祈りに代えることはできません。
 あなたが誰かに恋文を書いたとしましょう。この恋はぜひ成就させたいと願って、心をこめて最高の文章をしたためて出したとしましょう。それは惚れ惚れするような恋文ができたとします。もらった相手の人は、その文章を読んであまりの素晴らしさに感激し、何度も何度も読み返したとします。でも返事が来ませんので、ある日、その恋文をくれた人に聞きました。「私と交際してくださいませんか。」すると、相手の人が「ああ、すばらしいお手紙でした。でも、私はあなたのくれた手紙には関心があるけれど、あなたには関心ありません。」と言って断わられたらどうでしょうか。がっかりしてしまうでしょう。
聖書は神さまからの手紙ですから、その手紙を尊んでこれを一生懸命に正確に学ぼうとすることはとても大切なことです。けれども、もし手紙をくださった神様ご自身があなたと交わりたいと望んでおられるのに、それを望まないとしたら、これは神様を悲しませることです。「あなたは聖書の文字には関心があるが、わたしのことは愛していないのですね。」とおっしゃるでしょう。祈りとは、みことばにおいて語り給う神様と人格的な交わりを持つことなのです。ですから、礼拝において祈ることとともに、祈り会において主の臨在のもとにともに祈ることは大切なのです。

2.ユダの欠員を補う・・・罪の公的な処理
 さて、弟子たちが心一つにして熱心に祈って、聖霊が注がれることを待ち望んでいるうちに、彼らのうちに示されてきたことがありました。このままでは、聖霊をお迎えするにはふさわしくない、申し訳ないという思いでした。それは、イスカリオテ・ユダが抜けて十二使徒の一人が欠けてしまっていたということです。十二というのは完全数であり、イスラエル十二部族にも対応するものです。その一人が欠員になっているということは、問題であると良心を刺されたのです。しかも、それは十二弟子のうちから殉教者が出てかけたのではなく、裏切る者が出たことによるのですから。使徒ペテロが、その時、「兄弟たち」と語り始めたのです。
『兄弟たち。イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊ダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。
(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真っ二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)・・・」
 18,19節は括弧つきです。マタイ福音書によればイスカリオテ・ユダは首をつって自殺した(マタイ28:4)となっていますが、その後、綱が切れて転落したのでしょう。
 さらにペテロは続けます。
「 実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』」
 だから、使徒職の欠員を補わねばならないとペテロはいうのです。では、使徒職に就くにはどういう制限があったでしょう。それは、21,22節「ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」ということでした。ですから、当然、使徒は初代教会において新約聖書が完結するまでの間だけ存在していた職務でした。こうして、彼らは聖霊をお迎えするにあたって使徒の欠員を補いました。
教会は聖霊の御住まいです。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(1コリント3:16)私が家内と婚約をして、家内が引越しの準備のために私の住まいに来ることになったとき、私は家の掃除をしました。だれでもとても大切なお客さんを家に迎えるというときには、どうするでしょうか。きっといつもより念入りにお掃除をしたり、壊れているところは修理するでしょう。神の家である教会の群れのうちに誰よりも大事なおかたである聖霊さまをお迎えするにふさわしい備えをしないではいられなかったのです。それは、教会においては、罪をきちんと公的に処理することが正しく行なわれることが大事なのだということです。

むすび
  さまざまなことを学びましたが、あなたの心には何が残ったでしょうか?今日の私たち、小海キリスト教会として学ぶべきことはなんでしょうか。どのようなことがあるでしょうか。心合わせて教会が御霊に満たされることを求めること。そこで示された罪を神の御前に公的に処理すること。役員選出にあたっては、みことばにしっかり基づいて、祈りをもって主に委ねることが大切なこと。こうしたことを学んできました。聖霊により頼んでこそ、私たちの教会も大宣教命令に応答することができます。まずはともに心合わせて祈り、主の御霊の満たしをいただきましょう。

双子のトウモロコシ