苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

メモ8 死刑制度の是非

 「裁判員制度を聖書で考える」という枠からやや外れるかもしれないが、やはり裁判員となった場合、非常に難しい問題であるので、ここで取り上げておきたい。国際的には死刑制度にかんする廃止の流れが強いという事実や、死刑には犯罪抑止力があるかないか、冤罪問題をどう考えるか、暴虐な独裁政権が立ったとき死刑制度が乱用されないか・・・といったさまざまな議論があるが、ここではとりあえず触れない。

 旧約聖書の律法にはイスラエル国家による死刑制度が定められている。たとえば、以下のような部分。基本は「死には死」という公平の原則であり、加えて過失致死と殺人の区別がされていること、誘拐の報いと尊属に対する犯罪が厳罰であるということも注目すべき特徴だろう。
「 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。人をさらった者は、その人を売っていても、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。」(出エジプト21:2-21:17)
 新約聖書はどうか。以前にも述べたように、ローマ書は12章18−21節で、個人の復讐を禁じて、復讐は神がなさることだと教えている。ついで、13章1節から神が立てた俗権について述べて、同4節でこの俗権は剣をもって悪をなす者に怒りをもって報いを与える務めを持つことを教えている。俗権に剣が委ねられているという以上、ローマ書は、少なくとも当時の国家権力による裁きのうちに、死刑が存在していたことを容認していたと解釈せざるをえないのではなかろうか。
「それは、彼(支配者)があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。」(ローマ13:4)
 残る問題は、ローマ書が「当時の国家権力による裁きのうちに」のみならず、時代と地域を超えた普遍的な原則として、死刑制度を求めていると見なすべきなのか、そうではないのかということであろう。