国家の任務とはなにか?ローマ書13章によれば、国家は、国民の宗教生活・家庭生活・仕事がまともに営まれるための外的条件を、暴力装置による秩序維持と徴税・富の再分配によって維持することをその任務としている。司法は暴力装置による秩序維持という機能の一部だということができるだろう。警察や軍隊を国家の暴力装置と命名したのはM.ヴェーバーだそうだが、要するに、これは「法律を守らないと痛い目にあうぞ。殺すぞ。」と脅すことによって、国民に強制的に法を守らせるための道具である。そんな暴力装置がなければ、社会秩序が維持できないというのは、情けないことであるが、それが堕落した人間の構成する社会の現実であることを聖書は知っている。他人事ではない。罰則がなにもなくても、スピード違反を私たちはしないだろうか?残念ながらそうはいかないだろう。
法律に照らして有罪か無罪を判断し、かつその罪の軽重をはかって適切な罰を決定する役割をになうのが司法である。裁判員制度によって、この司法の働きの一部分を一般国民が手伝うことになったわけだ。
日本では、司法の役割は、従来、裁判官という専門の役人に委ねられてきた。国民主権の建前からいうと、国民は、立法機関・行政機関にそれぞれ国民の代表を直接・間接選挙の手続きをもって送り込むことによって、立法権と行政権という権力を間接的に行使しているわけである。司法についも基本的には、国民が、自らの代理として裁判官を立てて司法権を行使している。だから国民が最高裁判事たちの適・不適を審査するわけである。ただ、立法と行政は、国民の代表を選挙して選ぶという方法をとっているのに、司法については選挙で裁判官を選ぶという方法を取らないのは、司法の場合は高度な専門的知識を要するという認識があるからであろう。
しかし、裁判員制度が設けられることに世論の一定の後押しが出てきたのは、司法の高度の専門性に対して疑義がさしはさまれるようになったからであろう。報道を通してさまざまな裁判の結果を知らされて、首をひねるむきが多くなってきて、「国民の感覚と裁判官の感覚のズレ」がしきりに言われるなかで、裁判員制度を世論が支持するようになったということが言えるだろう。また、その「感覚のズレ」の背景には裁判官は官僚であるから、他の高級官僚と同じように己の出世が目的となっていることが、司法の判断を歪めてしまうということが、あるからかもしれない。
以前、門田隆将の『裁判官が日本を滅ぼす』という過激な内容と題名の本を紹介したことがあったが、裁判官は本来、法に基づいて公正な判断をすべきであるが、えてして官僚である彼らは出世にさしさわるような国を被告とする裁判の場合、判断を避ける場合がままあるという。また裁判官の退職後の花道つまり天下り先は大銀行の顧問弁護士なので、大銀行が被告となった裁判においては公正な判断ができない傾向があるとも指摘されていた。また、批判されないために徹底した前例主義、上級審でひっくり返されて失点とならないことに心を砕くという習性があると、著者は指摘していた。どのような影響からも独立して法に基づいて公正な審判をくだすべき裁判官であるのだが、やはり裁判官も利己的な罪人であるという現実から逃れられないのである。そういう意味では、裁判員制度が刑事事件の判断にのみ採用されているのは不適当であり、むしろ民間人が大銀行や国を提訴した民事裁判にも用いられるほうがより意義があると思われる。