苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

喜びに満ちて

                           ルカ24:36-53


          ノカンゾウ




1. 主の復活のよろこび


 「これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。』それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物がありますか』と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。」

 四つの福音書に残されている復活の出来事を記す記事には、それぞれに特有のメッセージがありますが、この個所は、主イエスの復活は単なる精神的なものとか幻といったたぐいのことではなく、まさに目で見ることができる、耳で聞くことができる、手で触ることができるような事実であったことを証言しています。
 エマオに向かう道を引き返してきた弟子たちが、エルサレムに残った弟子たちと、復活された主イエスについていろいろと話しているうちに、ふとイエス様が弟子たちの真中に出現しました。「彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。」とあります。無理もありません。物質的なからだがあるものならば、戸をあけて入ってくるだろうと普通は思います。それが、イエス様は「びっくりさせてやろう」と言わんばかりに、戸もあけないでいきなり彼らのまん中に出現したのですから。
 けれども、イエス様はおっしゃいます。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
 幽霊ならば手足はないだろう。私にはほらこのとおり、ちゃんと手足があるよ、と腕まくりをし、衣のすそをひざまで引き上げて、弟子たちに示されるイエス様のお姿を思い浮かべるとなんだかこっけいです。なんと楽しい記事ではありませんか。復活のイエス様は、光に満ちていて、あかるいユーモアがあふれています。
 それでも、弟子たちは「うれしさのあまり」まだ信じられず、不思議がっています。「うれしさのあまり、信じられず」というルカの筆はなんともやさしいですね。「弟子たちは不信仰にも信じることができず」と記さないで、「うれしさのあまり信じられず」というのです。信じられないほどうれしいのです。もし出現したイエス様が幽霊だったら、うれしいどころではなく、恐怖です。「うらめしやー。よくもわたしを捨てて逃げたな」とでも言われたら、弟子たちは震え上がってしまいます。でも、彼らは嬉しくて仕方なかったのです。なぜなら、それが正真正銘のイエス様だったからです。
 手足を見せても、弟子たちに信じてもらえません。そこで、イエス様はご自分が正真正銘のからだをもってよみがえられたことを証明するために、なにか食べることにしました。幽霊ならば飯は食わないだろうというわけです。晩御飯の残りでしょうか、差し出された焼き魚を神妙な顔をしてむしゃむしゃお召し上がりになったのです。弟子たちは、目を皿のようにしてイエスさまのお食事をなさる様子を見ています。幽霊だったら、食べるふりはしても魚は減らないでしょう。でも確かに魚は、イエス様のお口のなか、おなかの中に消えて行きました。
 ほんとうに主はよみがえられた!と、弟子たちはやっと納得したのです。イエス様の復活は、弟子たちの思い込みとか霊だけのよみがえりではありません。主は正真証明よみがえられたのです。
 しかも、イエス様の復活のからだは病気になったり滅びたりする古いからだとはあきらかにちがう性質を持っています。それはときに空間を超越していて、弟子たちのいる真中に突如出現することができるからだです。また再び滅びてしまう地に属するからだではなく、御霊に属する永遠のからだなのです。ですから、いわば、復活の前のからだよりももっと本当のからだになって、よみがえられたのです。再臨の日に私たちに与えられるからだも、そのようなからだなのでしょう。

2. 大宣教命令聖霊の約束

 復活という出来事は、イエス様の十字架による贖いの完成を告げる実に喜ばしい出来事でした。罪の代価は支払い終わったことの証でした。そこで、イエス様は満を持して福音の大宣教命令を発せられました。
 まず、イエス様はご自分の死と復活は旧約聖書の成就であることを確認なさいます。たまたまイエス様は捕まえられて死んで、よみがえったというのではなく、すべて神の人類救済のご計画のなかで行なわれたことなのだということを教えるためでした。イエス様は旧約聖書におけるメシヤ預言を次のように要約されました。「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(46−47節)
 イエス様はその十字架の死と三日目の復活によって、私たちの罪の贖いを成し遂げられました。ですから、誰でも悔い改めてイエスを信じる者は、神様の御前に罪をゆるしていただけるのです。イエス様は、神の御前における罪の赦しというプレゼントを用意して、私たちの目の前に差し出してくださっているのです。悔い改めとはなんでしょうか。それは方向転換といえましょう。プレゼントが差し出されていても、もしそっぽを向いていてはこれを受け取ることはできません。神様、イエス様のほうに「ごめんなさい」と言って向き直って、「ありがとうございます」と手を差し出すことです。これで人は、神様の前に罪をゆるしていただけます。罪の赦しこそ、人間にとって必要不可欠なものです。
罪のゆるしがなければ、神との間に平和はない。
罪のゆるしがなければ、たましいに不安がある。
罪のゆるしがなければ、たましいにほんとうの喜びはない。
罪のゆるしがなければ、生きる目的はわからない。
罪のゆるしがなければ、永遠に滅びる。
罪のゆるしを得れば、私たちは神との平和を得る。
罪のゆるしを得れば、たましいに平安がおとずれる。
罪のゆるしを得れば、たましいに本当の喜びがやってくる。
罪のゆるしを得れば、生きる目的がわかる。
罪のゆるしを得れば、肉体の死の後も天国に迎えられて永遠に生きることができます。
私たちにも、主の復活の証人、この罪のゆるしの福音の証人です。
「あなたがたは、これらのことの証人です。」(48節)
 ところが、イエス様は「きみたちは罪のゆるしを受けたのだから、ただちに伝道に出かけなさい。」とはおっしゃいませんでした。むしろ、待ちなさいとおっしゃったのです。
証人というのは、ある出来事を目撃したり体験したりして、それを証言する人です。目撃も体験もしていないと、証言は偽証になってしまいます。「イエス様を信じたら平安が訪れます」と言っている人が不安でいっぱいなら偽証です。「イエス様を信じたら喜びがいっぱいになります」といって、心に怒りや悲しみばかりいっぱいなら偽証です。弟子たちは、イエス様にある罪の赦しを得たのですから、ただちに世界に証人として出てゆけとイエス様はおっしゃるかと思ったら、そうではありませんでした。イエス様は待てとおっしゃいました。君たちはわたしを信じて罪を赦されているけれども、ちゃんと証人として、救いを目撃し、体感するまで待てとおっしゃいます。それは、天から聖霊をくだすのを待てということでした。

24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエス様を信じたら、その瞬間に罪のゆるしをいただけます。しかし、多くの場合、自分が神様の前に罪をゆるしていただいたことが、どれほどすごい恵みであるのかをその時にはよくわかっていないのです。私自身もイエス様を信じて救いに与ったのは1978年2月初頭、自分の罪がわかり始めたのが78年8月。そして、洗礼を受けたのが1979年の1月7日、イエス様の十字架にあらわされた神様の愛の大きさを実感して神様に献身したのが1979年2月20日でした。 ものすごく性能の悪い蛍光灯みたいなもんですね。スイッチをいれてからつくまでにずいぶん時間がかかりましたが、忍耐強い神様は待っていてくださいました。
 この神様の愛、罪ゆるしの偉大さをわからせてくださるのは、聖霊さまなのです。この聖霊様の忍耐強いお取り扱いに身をゆだねていると、やがて罪赦された確信と喜びが与えられます。正直言って自分はまだ自分の罪、神様の愛、神様に罪赦していただいたことを十分にわかっていないなあという方がいるかもしれません。そういう人は、今祈りましょう。この祈りは必ず聞かれます。
「私を聖霊に満たしてください。そして、神様に罪赦されたことのすばらしさをわたしにわからせて、私をイエス様の証人としてください。」

結び
「それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」24:50-53
 イエス様はエルサレムの東側の小さな村ベタニヤまで弟子たちと散歩していき、そこで手を上げて弟子たちを祝福なさいました。こうして祝祷をしながら、天へと昇ってゆかれたのです。ここに関する詳しい記事は使徒の働きの1章に出てきます。
 ルカの福音書はイエス様の誕生の記事のところも喜びに満ちていました。クリスチャン生活というのは、こんなふうに喜びに満ちたものです。私たちの生活を暗くしているものとはなんでしょうか。それは一つには罪です。神様は、イエス様の十字架にあって、私たちの罪を赦してくださいました。これを喜ばないでいられましょうか。こんなに赦され、こんなに愛され、永遠の祝福を約束されているのですから、私たちはこの喜びをもっと深く味わってまいりましょう。「いつも宮にいて神をほめたたえ」ましょう。私たちの礼拝が、賛美が、神への喜びに満ち満ちているとき、人々は、ここには神がいらっしゃると認めるのです。