苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

日本人の遵法精神

 日本人はなぜはるか遠くまで車が全然見えなくても、赤信号ならば横断歩道を前に立ち止まっているのだろうか。もちろん、横断歩道をわたっていく日本人もいるが、それでも多くの場合心の隅に小さな抵抗を感じているのではなかろうか。日本人が遵法精神に満ちているというのは、中国や韓国に行くとよくわかる。中国人は、法というのはその折々に権力者が決めたものにすぎず、五年後十年後にはどうなっているかわからないと思っている。やむをえない場合には法を犯してしまうし、犯して罰を受けたら、罰を受け終わってまたやり直せばよいと、気楽である。
 けれども、日本人は、いったん法を犯したら、もう恥ずかしくてもとの位置には復帰できないし、罰を受けて復帰してくると「よくもまあ恥ずかしげもなく・・・」などと陰口を言われてしまう。つまり、法以上に、世間の目というものが日本人を拘束しているらしい。単なる印象にすぎず、立証の方法も知らないが、徳川300年間の鎖国政策、五人組制度による相互監視というのが、日本人にいつも周囲の人の目におびえ、お上の目をびくびくと恐れるメンタリティを身に付けさせてしまったのではないかと感じている。「ほら人が見ていますよ」と言って、電車のなかで子どもが土足で席に上がっているのをやめさせる母親は多い。そして、明治になって国家神道体制の下でさらにそのメンタリティは維持・強化されたのであろう。先の戦時下の「隣組」も五人組制度と同じような相互監視の意味があった。
 江戸期より前の日本列島では、宗教者にしても、商人にしても、武人にしても、もっと自由な精神をもっていたように思える。たとえば、鎌倉仏教を開いた日蓮親鸞などは、国家の弾圧なにするものぞというスピリットにあふれていた。戦国時代から安土桃山時代にかけてのキリシタンたちの殉教をもいとわぬ信仰には、同じ日本人なのかと瞠目させられるものがある。秀吉に棄教を迫られたとき、領国など要りませぬといって、フィリピンに亡命していった高山右近のような大名までもいた。そうして、周囲の人々も俗権に弾圧されている人々を畏敬し、敬遠することはあっても軽侮することはなかったように見える。
 世間体でなく、神を畏れる自由人として生きたい。
「人を恐れるとわなにかかる。しかし【主】に信頼する者は守られる。
 支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは【主】である。」箴言29:25,26