苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中国と日本の遵法精神

 昨年中国四川に出かける機会があり、北京経由で出かけた。中国に前回出かけてから、もう二十年もたってしまった。北京の超巨大な世界最大という空港にはあきれてしまった。大きすぎてとても不便である。高層ビル、高速道路など、中国の町はまったく美しく様変わりしてしまっていた。だが、変わらないものは、中国人たちの堂々たる交通センスである。悪く言うと、「私が交通ルールだ」といういきかたである。タクシーに乗って一方通行の道を走っていると、正面から車が爆走してきた。タクシーは何事もなかったかのように、するりとよけて行く。高速道路では、分岐を間違えたバスがバックをしているではないか。高速道路をおじいさんが悠然と歩いてわたっているのも見た。また、高速道路をリヤカーを引く耕運機が時速20キロメートルくらいで走っているのも見た。
 わがままだといえばわがままなのだが、深夜車もなにも通っていないのに、赤信号だからと横断歩道を渡らないでじっと待っている日本人のほうが、異常なのかもしれないとも考えさせられた。まあ、中国人と日本人は両極端なのかもしれない。
 以前、陳舜臣のエッセーに、中国人と日本人の違い、それは中国の男は「生まれたからには天下を取ってやろう」と思っている点だと書いてあるのを読んだ。日本人は天下どころか、たとえばトヨタみたいな大企業に入社したら、社長になろうと思っている人などいなくて、まあ退職までに課長になれればよし、もしかして部長になれたら大満足と思っているのだろう。こういうことが、交通ルールをはじめとする遵法精神と関係していることは、あきらかだろう。自分が天下を取って王様になってしまったら、「朕は国家なり、法律なり」なのであるから。
 つぎつぎと王朝が交代して天下がしょっちゅうひっくり返ってきた中国の歴史と、厳密には虚構だけれど一応万世一系といわれる王統が長々と継続してきた日本の歴史との違いが、このような法に対する意識のちがいをもたらしたのだろうか。それとも、江戸幕府鎖国政策がもたらした日本人の矮小化のせいなのだろうか。