苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

荊冠の王 その2

 中世ヨーロッパにはたくさんの領主たちがそれぞれの領土をもち、修道院や教会の荘園もたくさんありました。王というのはせいぜいそういう多数の領主たちのなかの盟主にすぎませんでした。一応、俗権の総まとめとして神聖ローマ皇帝はいるにはいましたが、それは精神的・象徴的な存在にすぎませんでした。神聖ローマ皇帝に対峙する、聖なる世界の教権はローマ教皇でした。
 ところが、近世になって、スペイン、フランス、イギリスなどの地域で、中央集権化が進んで、圧倒的に強力な王権が成立するようになります。それが絶対王政です。ルイ14世の「朕は国家なり」ということばが有名でしょう。しかも、専制君主たちは国内においては、自分に優る権威はあってはならないと信じているのですから、教会をも自分の支配下に置こうとします。王たちは4世紀のコンスタンティヌス大帝以来の皇帝の教会に対するありかたを模範として、自ら教会の守護者であろうとしました。国王は自分の意に沿わない信仰者・教会を徹底弾圧することになりました。
 それぞれの絶対専制君主の権力欲は外に向かって膨張しますから、国々が絶えず衝突することになります。そもそも複数いるのに絶対だということが矛盾しているわけです。おたがい相対的なのに、「朕が絶対だ」「わしこそ絶対だ」「私こそ絶対ですわ」といってぶつかりあったので、17世紀から18世紀ヨーロッパは戦争につぐ戦争でした。しかも、当時の教会は16世紀の宗教改革者の神学的遺産を整理して、他派を否定し、自派の教義の正当性・正統性を立証して体系化することにひたすら励んでいた時代です。そういうメンタリティの教会が専制君主と癒着したものですから、専制君主同士の戦争は悲惨な宗教戦争となりました。結果は、キリスト教の評判を落とすということだけでした。
 そういう悲惨な宗教戦争三十年戦争に辟易して、もう国家が特定の宗派に肩入れしたりするのはやめよう、国家は宗教的寛容、政教分離を基本的態度持つようにしようということを確認したのがウェストファリア条約ということになっています。
 教会は真理の柱また土台ですから、真理を語ることは確かに教会の任務です。けれども、主イエスが荊冠をかぶった王として身をもって教えてくださった真理は「あなたの敵を愛せよ」でした。このことを忘れないでいたい。そして、やはり政教分離原則という歴史から学んだ近代国家の知恵は大切にすべきだと思います。とはいえ、無神論も一つの宗教ではないか、政教分離を唱えながら無神論という宗教を公教育で教えるのは問題ではないかというもう一つの問題があります。なかなか難しい。