苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

からだまるごとの救い

                 ルカ23:54-24:11
                  2009年7月12日 小海主日礼拝
「この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。そして、戻って来て、香料と香油を用意した。
 安息日には、戒めに従って、休んだが、週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。入って見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
 女たちはイエスのみことばを思い出した。そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」ルカ23:54-24:11

1.選ばれた女たち

 イエスが息を引き取り、両脇の十字架からも罪人も死んでしまうと、ゴルゴタの丘に集った群衆たちは三々五々、それぞれ家路に着きました。もう二時間足らずで日が落ちて安息日が始まろうとしていたからです。イスラエルでは、安息日には会堂あるいは神殿に礼拝に出かけること以外は、鍬を取ることはもちろん、旅をすること、火を起こして調理することも律法に反することとして禁じられていました。愛餐会も冷たい食事です。早く家に帰らねばなりません。
 ですが、その場を去りがたくとどまっていた人々がいました。ガリラヤからイエス様について来た女たちです。彼女たちは、イエス様の亡骸がこのあとどうされてしまうのかと心配していたのです。ヨハネの平行記事を見ると、最初十字架を遠巻きにしていましたが、いよいよイエスの最期のときになると、十字架の下にまでやってきていました。そして、このままではイエス様のたいせつな亡骸は、罪人たちといっしょに死体捨て場に持ってゆかれてしまうことを心配していたのです。でも彼女たちにはどうすることもできません。彼女たちが祈るような思いで待っておりますと、アリマタヤのヨセフがピラトに申し出て、イエスの亡骸を引き取って自分の家の新しい墓に納めることにしたということでした。
 そこで、彼女たちはイエス様が十字架から取り下ろされるのを目の前で見ました。アリマタヤのヨセフとしもべたちがイエスの亡骸を、十字架から降ろします。両腕と足に打ち込まれた太い釘が抜き取られて、イエスのからだが十字架から離され、戸板に乗せて運んでゆくあとを女たちはついて行きました。
現在、エルサレムに旅行するとイエスの墓と言われる場所はふたつあります。一つはローマカトリック聖墳墓教会が建っている場所であり、もうひとつはゴルドンのカルヴァリにほど近い園の墓と呼ばれる場所です。聖墳墓教会エルサレムの城壁のなかにあり、園の墓は城壁の北側の外にあります。福音書の記述からしますと、ゴルドンのカルヴァリの近くにある園の墓が、主イエスが葬られた墓であったと考えるべきです(ヨハネ19:41 )。
園の墓は白っぽい岩壁をうがって造られた大きな横穴式の墓です。墓の入り口は幅60センチほど高さ160センチほどの四角い穴になっており、その手前には幅60センチほどの石の溝がついています。その溝がレールの役割をして、わきに立てかけられた直径三メートルほどもある巨大な円盤状の石の板をゴロリと右に転がして、穴の右の石止めで止められて墓の穴をふさぐ仕組みになっています。
ヨセフたちは、墓の中にイエスを運び込みました。かつてイエス様に永遠のいのちについて尋ねて来たニコデモも、主を葬るために没薬とアロエを混ぜたものをたくさんもって来ました。ニコデモもその信仰を表明したのでした。彼らはイエス様のなきがらに没薬をぬり、当時の習慣にしたがって、帯状の布で覆い、頭は風呂敷ほどの大きさの別の布で包みました。こうして亡骸を安置しました。そして、墓の前にあの巨大な封印石がごろりと転がされ、封印石の両側に石が動かないように岩壁に太い鉄のくさびが打ちこまれて、鎖がかけられ、ローマ帝国の封印が施されます。そして当局から遣わされた兵士が番に立つことになったのです。
 女たちは、そのようすの一部始終をしっかりと「見届け」ました。彼女たちが主イエスの葬りと復活の最初の証人となるわけです。神さまがこの女性たちをイエスの葬りと復活の証言者としてお選びになったのです。これは興味深いことです。というのは、当時のユダヤ社会においては女性には裁判における証人としての資格がなかったからです。実際、十一人の弟子たちも少し後を見ると、女たちの証言を聞いて「たわごとだと思った」と書かれています。けれども神さまは、そういう証言能力がないとみなされていた女性たちを、あえて証言者としてお選びになったのです。古代教会から今日まで教会においては、表に立って指導するのは男性ですが、常に女性たちが、蔭にあって常に大きな働きをしてきたのです。神は女性たちを用いてこられました。

2.空虚な墓――――からだのよみがえり
 
 女たちは主イエスのからだが丁重に墓に葬られたので、ほんの少し慰めを得て、日没間近の太陽を見ながら、それぞれ足早に宿に戻りました。そうして、今でいう金曜日の夕方、日が落ちて週の七日目の安息日が始まりました。もはや何をすることもできません(23:56)。
 さて、安息日は、今で言う土曜日の日没で終わり、第一日目はその日没から始まりました。けれども、女たちは日が暮れて安息日が終わったからといって、すぐに墓へは向かいませんでした。彼女たちは、もう一度主イエスの墓に出かけてイエス様の亡骸を少しでもきれいに保つために、香料と香油を急いで用意したのでした。
私は思うのです。もし、彼女たちや弟子たちがほんの少しでもイエス様が復活するのだという約束を信じていたら、今で言う土曜日に日が落ちて安息日が終わるやいなや、きっと松明を灯して墓に出かけたにちがいありません。一刻も早く復活の主にお会いしたいのですから。けれども彼女たちも弟子たちも、安息日が終わってもすぐには墓には向かいませんでした。彼らにとって、イエス様がよみがえるなどということは、まったく思いもよらなかったからです。たしかにイエス様は、ご自分が殺されて三日目によみがえると何度も予告なさったのですが、殺されることはともかく、文字どおり死人が復活するということは、文学的比喩程度のこととしてしか理解しようがなかったのです。
 そして、「 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた」(24:1)のです。「週の初めの日」という表現は、四つの福音書におけるイエス様の復活の記事のなかに特筆されています。週の終わりの日、七日目こそ聖なる日であるというのは、ユダヤ人たちにとっての堅い信仰でした。イエス様の時代にはユダヤ人はたとえ敵が攻めてきても安息日には武器を取らずに、滅びることを選択するほどにこれを堅く守ったのです。
そもそも、神が万物を創造なさったとき、神ご自身が第七日目に休んで、これを聖なる日とされました。エリコの町もその町を回り始めて七日目に陥落しました。聖なることは七日目に起こるはずでした。ところが、主イエスは週の初めの日に甦られました。それで使徒の働きを見ると、初代教会の兄弟姉妹たちは初めのうちは安息日に神殿や会堂に出かけて礼拝し、翌日、週の初めの日にパン裂きをしていました、やがて会堂から追放されて、週の初めの日にパン裂きをするようになりました 。イエスの復活を記念する礼拝をささげるようになっていったのです。
 さて、女たちが週の初めの日、夜が明けるか明けないかというときに、主イエスの墓に来てみると、すでにあの封印の巨石が墓からわきに転がされていました。そして墓に入ってみると、イエスのからだはなかったのです(2,3節)。からだがなかったとはどういうことですか。イエスの復活というのは、霊や魂だけがよみがえったということではなく、からだを伴ったよみがえりなのだということです。
 世間には、イエスさまがからだを伴ってよみがえられたことを、なんだかんだと屁理屈をこねまわし一生懸命否定している学者たちがいます。いわく、イエス様は死んでしまったけれど、弟子たちの心の中にイエス様の生き生きとした思い出がよみがえったのですとロマンチックな言い回しで言ってみたり、イエス様は霊だけよみがえったのであるとかいうのです。彼らがそういうことを根拠はなにかといえば、結局、「死人が文字通り復活するはずなどないから」という弟子たちや女たちが考えていたことと同じ、不信仰な偏見にすぎません。けれども、もしそうであればイエスの死体は墓の中にあったはずです。しかし、四つの福音書はいずれも、まちがいなくイエスの収められた墓は空っぽだったと疑いなく告げているのです。イエスの復活は、からだまるごとの復活なのです。
 そして、イエス様は、私たちの初穂ですから、イエス様に起こったことが、イエス様を信じる私たちも起こることです。神さまが私たちに与えてくださる救いとは、霊や魂だけの中途半端な救いではなく、からだまるごとの完全な救いなのです。たしかに救いは、まず私たちの内側から始まります。つまり、私たちがイエス様を信じたときに、私たちの霊が救われて、新しくされます。いままで神などいるものかと思っていたその心がきよくされて、たしかに神さまがいらっしゃるということに気づきます。霊が救われて新しくされると、今まで自分は正しい人が間違っているとばかり思っていた人が、自分は罪人なのだということに気づくようになります。確かにこのように救いの発端は、私たちの内面から、霊から始まります。けれども、救いはそれで完成したわけではありません。私たちの救いは、復活の日に、からだ丸ごとの救いに至るのです。
「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」ローマ8:10,11
 イエスが再臨されると、死者がよみがえらされ、生きている私たちは変えられます。そのとき私たちは新しく朽ちることのないからだが与えられて復活します。神様が私たちに賜る救いとは、からだまるごとの救いなのです。私たちは、今は罪に汚れていて朽ちるからだの中でうめいています。このからだには罪がしみ付いていて、私たちの口は言ってはならないと思うことを言ったり、私たちの手は自分ではしてはいけないとわかっていることをしてしまっては、私たちの良心を苦しめます。また年齢を重ねていけば、あちこちにガタが来て、腰が痛い、ひざが痛い、胃が具合悪い、よく見えない、よく聞こえなくなった、物忘れがひどくなった・・いや天然ボケだ・・・云々ということになります。けれども、主イエスが終わりの日にこられてくださる丸ごとの新しいからだは罪から解放され、老化からも解放されるのです。

3. 生きている方

 さて、空っぽの墓を見て女たちは途方にくれました。誰かが主イエスのからだを取っていってしまったと思ったのでしょう。ところが、そこにまばゆいばかりの衣を着た二人の人が来ました(4節)。御使いです。そして、彼女たちに語りました。
「『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。
まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』女たちはイエスのみことばを思い出した。」ルカ24:5-8

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」というのは、なんと印象深いことばでしょう。御使いは主イエスのことを「生きている方」と呼びました。死人に対して生きている方と呼びました。イエス様を信じるというのは、エジソンを尊敬する二宮金次郎を尊敬するといった死んでしまった偉人を尊敬することではありません。今、生きているイエス様に信頼して生きることです。今生きているイエス様ですから、私たちのきょうの生を支えてくださるのです。
 また、この主イエスの復活の宣言には、死は克服されるべきものだという主張が明確です。自然宗教の世界では、仏教であれ、神道であれ、死は自然のことであると教えます。「すべて命ある者は死ぬのである。だからあきらめよう。」日本人である私たちはクリスチャンになっていながら、そういう考え方に知らず知らずに慣らされてしまっているかもしれません。死は自然なものであるというふうに無理やり思い込むことによって、死の恐怖を乗り越えようとするのです。
 しかし、聖書によれば、死というものは不自然なものです。死は人類最後の敵、死は恐怖の大王です。死は最初、神のかたちとして造られた人間アダムが、神に反逆したことによって人類の中に入ってきたものです。自然なことというのは、それが起きてもなにも驚かされることではありません。たとえば太陽が東から昇って来ても誰も驚きません。自然なことだからです。投げ上げた石が落ちてきたとて誰も驚きません。自然だからです。けれども、ある朝、西の空が白んで太陽が西の空に突然現われたら、驚き恐怖にとらわれるでしょうし、投げ上げた石が一向に落ちてこないとしたら、これまたびっくりです。死は自然なものだというのは、現実から顔を背けさせるための哲学・理論にすぎません。
 死は罪の結果であると聖書は述べています。あらゆる罪は神に対する反逆です。ですから、神の御前で罪を赦されてこそ、その結果である死からも解放されます。実際、主イエスは私たちの罪をその身に背負って呪いの十字架で命を捨ることによって、その報酬を主イエスは受けてくださったのです。しかも、そののろいをすべて受けつくされたゆえに、復活されたのです。
ですから、イエス・キリストが死んで甦られた今、私たち主イエスを信じる者は、もはや死ぬ必要がなくなってしまったのです。私たちは永遠に生きるものとしていただいたのです。ただ、私たちが主が再び来られる前に、この肉体を去るのは罪の呪いゆえではなく、朽ちるこのからだを脱ぎ捨てて、やがて新しいからだを着るための準備にすぎないのです。死は、キリスト者にとって本格的に永遠のいのちを味わうための備えです。

むすび
 主イエスはからだをもって復活なさいました。そして、私たちにも復活のからだを用意していてくださいます。私たちは死人を思い出して偉人として尊敬して生きるよすがとしているのではありません。私たちは、生きているイエス様に日々ささえられて生きています。そして、生きているイエス様は、やがての日、私たちにも朽ちることのない罪けがれを拭い去られた復活のからだを与えてくださいます。