苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

宮村先生との出会い(その2)

 「君は傲慢だ。君のまわりには草も生えない。君のような奴は、ほかに任せられる人がいないから、宮村先生に頼むことにした。」
 朝岡先生は怒りのあまり顔が青白くなっておられた。こちらが叱られながらも『先生、心臓大丈夫かなあ』と内心危ぶむほどであった。私にとって、朝岡先生に叱られたのは前にも後にも一回きりの貴重な経験だったと今では思える。先生の手元から離れて神学校にやるにあたって、4年間私を見てきた上での問題点を厳しく指摘してくださったのである。とはいえ、そのときは大きな衝撃であり深い痛手となった。
 「神様は、周りに草も生えないような人間を牧師にして、なにをさせようというのだろう。そんな人間を伝道者としてお召しになっても、神様にご迷惑をおかけするだけではないか。自分は洗礼を受け、献身を表明してから三年間いったい一生懸命何をしてきたのだろう。『神の栄光のために』と励んできたことは、なにもかもが無駄だったし、なにもかもが罪だったのかもしれない。」そして思った、「それにしても、春からご指導いただく宮村先生とは、どんな恐ろしい先生なのだろう。」と。
「さあお昼を食べて行きなさい。」
 集中砲火を受けて、こっちはぺちゃんこになっていたが、朝岡先生はさらりとおっしゃった。食卓につくと、牧師夫人は私の顔を見て、すべてを察していらしたようである。あのころ、この牧師館の食卓でいったい何度ごはんを食べたか数え切れない。私は、そのたびに牧師夫人や子どもたちのおかずを食べてしまっていることを自覚もしないでいた愚かなお坊ちゃんにすぎなかった。
 朝岡先生は食卓で宮村先生のことを紹介なさった。宮村先生はJCCの後輩であり、JCC卒業後、米国に留学し、ゴードン神学校、ハーバード大学でまで学ばれた新約学者なのだということだった。「これからの福音主義の神学界をリードすべき三人のうちのひとりであると私は考えている」ともおっしゃった。とにかく宮村先生というのは、なんだかものすごく優秀な人で、いかめしい神学者で、もしかすると朝岡先生に勝るとも劣らず恐ろしいお方なのだろうかと想像した。この春から、その宮村先生の仕える教会の奉仕神学生となり、神学校でも教えていただくことになるというのだから、背筋が伸びる思いだった。朝岡先生は言われた。「神学校というのは軍隊で言えば士官学校だ。いのちがけで勉強し、いのちがけで奉仕をしなさい。」

その数日後、神戸に住む母から電話があった。声が震えている。
「この間、中央市民病院に行ったら、お父さんが食道ガンやて言われたんよ。」
「・・・ガン。で、程度は?」
「去年の夏から調子わるくてずっと検査していたのに、原因がわからなくて、今回わかったら、お医者さんはもう手遅れで、半年くらいの命やて言うんよ。」
 四月十日に手術をするが、それは延命措置にすぎないとのことだった。父は母とともに神戸の教会で洗礼を受けて三年間が経っていた。当時、医者は患者にガンの告知をしないのが一般的で、家族はそのことを胸にかかえて死に行く人の看病をするものだった。父は洗礼を受けてのち忠実に教会生活はしていたものの、信仰が強いという人ではなかった。たとえばタバコをやめるべきだと本人は思いながら、何度も禁煙をするというありさまだったし、聖書の記述のところどころについても「ほんまかいな」と疑いめいたことを口にすることもあった。
母は父にとって恋女房で、信仰生活については父は母に支えられているという面が大きいように思えた。医者がいう「半年間」は、母にとってたいへん厳しい半年間となるだろうと予想された。できるかぎり帰省して、母の重荷を少しでも軽くしてあげなければならない。父には確信をもって天国に帰ることができるように導きたい。しかし、「神学校は軍隊でいえば士官学校だ。」と朝岡先生から言い渡されていた私にとっては、むずかしい状況となってしまった。(つづく)