苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

学者の適性と牧師の適性

 主イエスの牧会者・伝道者養成の二原則は、召しと模範である。だとすれば、牧会者の模範となりうる者は、すぐれた牧会者であり、伝道者の模範となりうる者はすぐれた伝道者であるということになる。だが神学者と牧会者・伝道者を両立させることは困難である。なぜならば、神学者と牧会者・伝道者の適性には、異なる部分がかなり多いからである。
 人文系の学者の適性は、分析と総合と洞察にすぐれた知性と、一日中机に向かって書物と格闘していることを苦痛とせず、むしろ楽しみとしてできることであろう。他方、牧会伝道に携わる者の場合、一日中机にかじりついていたのではその務めは果たせない。牧会伝道者も、毎日コンスタントに数時間は机に向かうことは必須だが、それとともに、初対面の人であれ、信徒であれ、その魂への配慮のために、惜しまずに時間とエネルギーを費やすことができなければ務まらない。また、小さな教会であれば、訪問、大工仕事、印刷、草取り、事務、掃除などもろもろの雑用がおおい。大きな群れの牧師であれば、雑用は少ないとしても相当のリーダーシップの能力と、人間関係から生じるストレスへの耐性が要求される。そして大きな教会であれ、小さな教会であれ、牧会者に共通して求められることは、あらゆる年齢層・教育水準・背景の人々に毎週判りやすく胸を打つ説教ができることと、託された兄弟姉妹のためにとりなし祈り続ける愛の忍耐である。
 このように、学者と牧会者に求められる資質の間にはかなりの隔たりがあるので、両者の適性を兼備した器はまれである。理想はモーセパウロ、そしてアウグスティヌスやルターやカルヴァンであろうか。かつて、私がお世話になった神学教師のうちでは、小畑進先生、宮村武夫先生、清水武夫先生がそういう方たちだった(失礼、まだ過去の人ではないが)。神学部が象牙の塔となってしまえば、牧師伝道者の養成はできなくなる。さまざまな問題で傷ついている魂のうめきに関心がない学者では牧会者の模範にはなれないし、滅び行く魂をキリストに導いたことのない研究者では伝道者の模範になれないからである。
 それにしても、現代の趨勢として神学教育も高度な最先端にふれるものが要求されるのだとしたら、神学部の教員構成は足りない部分を補い合うことを配慮しなければならないのだろう。ただ、すべての神学校教員はせめて礼拝には皆勤するという最低限の基準は守るべきである。すべての神学的営みは畢竟、礼拝を目的としているのであるから。そして、神学教師たちが牧会者・伝道者養成の模範たりえないという自らの欠けの部分は、神学生たちのかよう奉仕教会の牧師たちに補っていただいているのだという謙虚な姿勢が必要ではないか。
 私自身はすぐれた牧会者ではなく、すぐれた伝道者でもなく、すぐれた神学者でもなく、どれもこれも中途半端なので、神様に申し訳ないと思うが、召されて与えられた職務になんとかふさわしくなれるよう、努力は続けていきたい。