苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

仕えるために

「わたしについて来なさい」と主はシモンやアンデレやヤコブヨハネたち十二人をお召しになり、訓練が始まった。その歩みのなかで、十二弟子が繰り返して陥った過ちは、「私は主に特別に召された者だ」という鼻持ちならない特権意識と傲慢な振る舞いであった。
 すべての主を愛する人々に伝道者の召しが与えられたわけではないのだから、それが特権であることを否定することはできない。しかし、主はその伝道者を、兄弟姉妹にみことばの用をもって仕えるしもべとして召されたのであって、傲慢な王として君臨するために召されたのではない。たしかに牧師伝道者はリーダーシップをとる責任が生じるが、その心はしもべであらねばならない。しもべの心をもったリーダーである。
 だから、主はその用いようとする器が有能である場合は特に、まず徹底的に打ち砕かれ、罪人のかしらにすぎないことをいやというほど知らされて、自信を喪失させられる。自分の野心や才覚や知識でことをなさず、ただ神の御旨に従うために。モーセがそうであった。パウロがそうであった。
「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」1ペテロ5:2,3