苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ほんとうに正しい人が

                    ルカ23:44−49

                   2009年6月14日小海主日礼拝

1. 呪いの暗闇

「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
太陽は光を失っていた。」23:44-45

紀元32-33年ニサンの月にイエス様は十字架にかかられたとある学者たちは指摘しています。ゴルゴタの丘で主イエスが十字架にはりつけにされたのは、午前9時のことでした。それから3時間後の正午、突然、太陽が光を失って、全地は暗闇にとざされました。いったい何が起こったのでしょうか?現代の多くの人は、科学的知識をもって、これは日蝕なのだろうと考えて、古代人たちは日蝕に宗教的な意味を付け加えて考えたのだろうなどというでしょう。けれども、この日の現象は通常の日蝕ではありえません。イエス様が十字架にかかられたときは、過越し祭のときでした。過ぎ越し祭は満月のときになされるのですが、満月の時には日蝕は起こりえないのです。
 しかも、この日、このときに、太陽が三時間ほど光を失ってしまったという出来事は、古代のフレゴンという年代記記者の記録には、この日、小アジア半島のビテニヤ地方でも観察されたということが記されています。というわけで、この正午から三時間にわたって太陽が光を失って暗闇が地をおおったという出来事は実際に起こった出来事であり、かつ、それは通常の日蝕によるのではなかったのです。
 この暗闇は、まったく超自然的な暗闇、神が太陽の光を隠してもたらされた奇跡としての闇でした。そこで、神様はこの不思議な暗闇を用いていったい何を私たちに啓示しようとなさっているのかを悟らなければなりません。聖書のなかで、神様は暗闇をもって何を表象なさっているかが手がかりになります。
ヨエル2:10
「その面前で地は震い、天は揺れる。
 太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
ヨエル2:31
【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、
 太陽はやみとなり、月は血に変わる。」
アモス5:18
「 ああ。
 【主】の日を待ち望む者。
 【主】の日はあなたがたにとっていったい何になる。
 それはやみであって、光ではない。」
ゼパニヤ1:14-15
「【主】の大いなる日は近い。
 それは近く、非常に早く来る。
 聞け。【主】の日を。勇士も激しく叫ぶ。
その日は激しい怒りの日、
 苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、
 やみと暗黒の日、雲と暗やみの日」
 このように、聖書は、太陽が光を失うという現象、また、闇と暗黒を、神の大いなる審判の日の表象として啓示しています。また、過越しの祭りとの関連で暗闇ということを思い起こしてみれば、出エジプトに際しての、十の災いのうち第九番目は、昼日中に漆黒の闇がエジプトを覆うというものでした。この呪いの暗闇の出来事のあと、過越しの小羊たちが殺されて、その血がかもいに塗られたのです(Ex10:21,22)。
こうしてみてくると、十字架にかかられた主イエスを覆った暗闇は、のろいのしるしであると理解すべきであることがわかります。「木にかけられた者は呪われたものである」とあるとおりです。この暗闇は、神の審判が、十字架にかけられたイエス様の上に下されたことを意味する暗闇だったのです。
エス様が十字架に付けられたのは午前9時でした。9時から正午までの三時間、イエス様には苦しみのなかでも人々のために祈ったり、隣の十字架の犯罪人に伝道をしたりなさいました。イエス様には、私たちでは考えられないような余裕がありました。けれども、正午から午後3時までの三時間を支配した暗闇のなかで、イエス様はずっと沈黙なさっていました。実に、この暗闇と沈黙の三時間こそ、聖なる審判者である神の呪いが御子イエスのうえに下されていたときでした。永遠ののろいが詰め込まれた三時間を主イエスはたった一人で過ごされたのでした。
マルコ伝とマタイ伝の平行記事には、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」つまり「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか!」という痛切な叫びが記録されています。これは旧約聖書詩篇の引用です。イエス様はいつもの祈りの中では、神様のことを「父よ」と呼ぶのであって、「わが神よ」とはお呼びになることは珍しいのです。けれども、この十字架において、今、イエス様は、人間の代表として神に捨てられるときでした。ですから、「わが神、わが神」と叫ばれました。主イエスは、あの暗闇のなかで地獄を経験なさったのです。
エス様の御受難の姿について、預言者イザヤは次のように言いました。
「多くの者があなたを見て驚いたように、その顔立ちはそこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。」(53:14)
恐るべき呪いの闇のなかで、主イエスは、人類の代表としてたいへんな苦痛をなめられたのでした。その甚だしい苦しみをもって、私たちの罪の償いを成し遂げてくださいました。

2.神との交わりの回復

 主イエスが暗闇のなかで罪の呪いを受け終わったとき、エルサレム神殿の奥ではいまだかつてない出来事が起こっていました。なんと神殿の幕が真っ二つに裂けたのです。神殿の幕というのは、聖なる神の臨在が現れる契約の箱のある至聖所と、祭司が通常の務めを行なう聖所とを区切る垂れ幕のことです。この垂れ幕には、神の御座を守る天使ケルビムがたくみに織り出されていました。ケルビムとは、アダムとエバがエデンの園から追放されたとき、いのちの木への道を守るために神が置いた御使いのことです。人は、あのとき以来、いのちの木への道を閉ざされてしまいました。
 聖書において、いのちとは神との交わりを意味しています。人は神との交わりとによって、ほんとうに生き生きとした人生を送ることができるのですし、天国とはまさに神様との交わりが完成するところなのです。エデンの園ではアダムと妻は、神様との交わりのうちに実に幸福な生活を送っていました。また、主イエスはご自分を葡萄の木にたとえて、信者たちに私にとどまりなさいとおっしゃいました。
ところが、ここに大いなるジレンマがあります。それは、神様がこの上なく聖なるお方であり、罪をお嫌いになるお方であるという事実が一つです。私たち人間は罪があるためにこの聖なる神に近づくならば、死ななければならないのです。旧約聖書レビ記10章には、大祭司アロンの息子たちナダブとアビフという若い祭司が、どうやら酒に酔っていたらしく、神様が指定なさったのとは異なる火をささげたために、垂れ幕のなかから火が出てこの二人の祭司たちは焼け死んだという恐ろしい記事が記録されています。旧約聖書にはあちらこちら、神の御顔を見た者たちは、「私はもう死ななければならない。神の御顔を見たのだから。」と叫んだという言葉が出てきます。
 こうした出来事がありましたから、イスラエル人たちにとって、垂れ幕の向こう側に行くことは恐怖でした。一年間に一度だけ、神様に選ばれた大祭司がたった一人で垂れ幕を開いて、向こうに行かねばなりませんでした。これは恐怖でした。もしかすると二度と戻ってこられないかもしれなかったからです。
 神様に近づかなければ命はありません。しかし、罪あるままで神様に近づくと死ななければなりません。これこそまさにジレンマです。それは、譬えて言うならば、今まさに飢えて死にそうな人がいて、目の前に滋養満点のごちそうがあるのだけれど、胃が衰弱しきっているために食べるとかえって死んでしまう。けれども食べなければ餓死してしまうというジレンマに少し似ています。
 どうすればよいのでしょうか。方法は一つです。神様に近づくことを妨げている私たち人間の罪の問題を処理することです。主イエスは、この罪の処理をするために、私たちの住む世界に人間となって来てくださり、人間の代表として十字架にかかって苦しんで死んでくださったのです。聖なる神と罪深い私たちの間には、罪による断絶があります。主イエスは私たちの罪に対する罰を、一身に背負ってくださいました。私たちに対する神様の御怒りを私たちの身代わりに受けてくださったのです。このように、イエスを信じる者たちに対する永遠の刑罰は完了しました。神と私たちを隔てていた幕は不必要になったので、神様はこれをエイヤッと破り捨ててしまわれたのです。
23:45b 「また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。」
いまや、イエスを信じる者はだれでも、イエスを通して、父なる神のみもとに行くことができ、神との交わりにはいることができるようになったのです。

 このように私たち人間と、父なる神との間の不和を解決するという任務を帯びてイエス様はこの世に来られました。そして、ご自分が十字架に過越しのまことの小羊として、呪いの暗闇の中でほふられて死んでくださったのです。
 イエス様は、すべての苦しみを嘗め尽くすと、ふたたび天を見上げられました。先ほどは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と絶望の叫びを上げられたイエス様ですが、ご自分が天の父から託されて果たすべき任務を果たし終えて、今は、満足なさいました。(ヨハネ伝では、ここで「完了した」と)そして、最後に苦しい息の下でしたけれど、大きな声で満足げに天の父に向かっておっしゃいました。
23:46「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
 
3.反応

 十字架の下に百人隊長がいました。ピラトの法廷で、主イエスが鞭打たれるお姿、そして、十字架を背負ってゴルゴタに歩いてこられたお姿、そして、十字架にかけられてから「父よ。彼らを赦してください。」と力を振り絞って祈られたその祈り。そして、隣の十字架の犯罪人にパラダイスの希望を約束なさったこと。そして、恐ろしい暗闇の三時間。主イエスの最期のことば。これら逐一見て聞いたのです。彼は、感動して神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言いました(47節)。
 百人隊長というのはローマ人でしたが、真の神を恐れる敬虔な人でした。かつて、自分のしもべが熱病で死にそうになったとき、イエス様のもとに使いを遣わして、癒していただいたあの人でしょう。彼はイエス様を見て正しい方であったと言いました。マタイ伝、マルコ伝は「神の子」であったと記録しています。総合すれば、「神の子、正しい人」であったと彼は言ったのでしょう。
 十字架刑という恐るべき処刑の場面に、この百人隊長はその職務上何度も立ち会ってきたはずです。そして、この十字架刑という場面においては、どんな人間のごまかしも虚勢も偽善も通用しなくない修羅場となってしまうことを見てきたのでしょう。法廷で虚勢を張って強がってきた男も、ついに十字架に付けられるとき腕を引っ張られ、犬釘を打ち付けるハンマーが振り上げられる時になると「それだけは勘弁してくれ。助けてくれ!」恐ろしさに泣き喚きました。もし、その男が苦痛を忍べるよほど気の強い男ならば、十字架の下からあざける人々に向かって、苦しい息の下から「てめえらこそ、地獄に落ちやがれ。この悪魔ども!」と罵り返すのがあたりまえでした。十字架の立つ処刑場は、つねにさながら地獄絵図でした。
 ところが、百人隊長は今日、その地獄のただなかにいながら、初めて本物の「正しい方」を目撃したのでした。主イエスは、この事態にいたっても、罵られても罵り返さず、嘲られても脅すことをせず、正しくさばかれる神にすべてを委ねられました。それどころか、今まさに自分を呪い、嘲り、殺そうとして苦しめている人々のために、せつなるとりなしの祈りをなさった愛を見て聞いたのでした。「この人は正しい方であった!」という感嘆が彼の口から飛び出したのはもっともでした。確かに、イエスは人として十字架にかかって死んでくださったのですが、十字架のイエスの正しさは、もはや人間の域をはるかに超えた、聖なる神の御子としての正しさだったのです。
 百人隊長以外の多くの群集も、集ってきたのは残虐な好奇心を動機としていたのですが、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰っていきました。

むすび
 イエス様というお方は、正しい人でした。この正しい人が、呪いの十字架を背負い、十字架に磔にされねばなりませんでした。この正しい人が、十字架の上で永遠のゲヘナの呪いがつめこまれた暗闇の中に一人で苦悶しなければなりませんでした。
 私たち人間の罪の罰を贖うのは、牛や羊などほかの動物のいけにえではなく、人間でなければなりませんでした。そこで、神の御子は地上に下り、処女マリヤから生まれて、生身の人間となってきてくださいました。
 また、私たち人間の罪を担うのは、罪がまったくない人でなければなりませんでした。なぜならば、罪ある人は、他の人の罪を担うことはできないからです。罪ある人は、自分の罪ゆえののろいを受けるだけで精一杯でしょう。ただ、ほんとうに罪のない正しい人のみが、罪ある者の身代わりとなって罪ののろいを受けることができたのでした。そこで、他の誰でもなく聖なる神の御子が、人間になって、十字架で苦しむことが必要だったのです。
 「この人は正しい方だった。」そうです。主イエスは、罪のない、罰を受けるいわれのまったくないお方でした。そのお方が、神の御前で罪がある、罰を受けてあたりまえの私たちのために、呪いの十字架にあえてかかってくださったのです。なぜでしょうか。主が、あなたを愛しておられるからです。