苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

新幹線で

 毎週木曜日、新幹線で千葉の神学校に出かける。今朝、席に着いて聖書を開いたら、隣席のビジネスマンらしき男性も聖書を開いているのに気づいた。じゃまをしてはいけないと思って、自分も聖書を一章読み終えたころ、その方もひとくぎりついた様子だったので、思い切って自分の聖書を示しながら声をかけた。
「クリスチャンですか?」
 うかがえば御代田の集会に毎日曜日集っていらっしゃるという。きょうは、仕事で東京へ出張とのこと。私が神学校に教えに行くところだと申し上げたら、
「神学校というのは何を勉強するんですか。私はただただ聖書だけを読んでいますが、聖書を学問として学ぶというのはどういうことなのですか?想像がつかないのですが。」と、非常に本質的な質問された。
・・・・・
 聖書を読むのはなんのためかといえば、神様を知るためである。ところで、神を知るとはどういうことだろう。私たちがなにかを知る場合、モノを知る場合と、人格を知る場合がある。相手がモノであれば、科学者のように寸法を測ったり、重さをはかったり、砕いたり、熱したり、なにかと化合したりして、あくまでも客観的に知るわけである。
 しかし、知る対象が人格であるばあいは、そうはいかない。私が相手をほんとうに知りたいならば、つまり友となりたいならば、相手が私を知ることをも許していなければならない。そうでなければ、犯人の取調べはできても友になることはできない。
 神というお方は、モノでなく人格である、霊であられる。だから、神学とは科学者が物質を研究するようなことではない。もし真の意味で神を知りたいならば、聖書を開いたときに、神に対して「私を知ってください。」という開かれた心を持っていることが必須なのである。
 Nさんのとてもたいせつな問いかけに、こういうことを思い出した。関心のあるかたは、小海キリスト教会のHPの「牧師の書斎」の「神を愛するための神学講座」の序説を読んで見てください。http://www.church.ne.jp/koumi_christ/shosai.html
 Nさんは、聖書をひたすら読むなかで、生きている神との友情を経験していらっしゃるので、友情が学問として成立するということが理解しがたいのだろう。確かに、神との人格的交流のほうが信仰生活におけるもっとも大事なことであって、神学に取り組む人が神との生きた交わりをもっていないならば、その人の神学は空疎なことば遊びにすぎまい。いや空疎どころか、神の怒りをまねく不敬虔なことばあそびである。主の御名をみだりに唱える者を、主は罰せずにはおかないとおっしゃったのだから。
 もし神学という営みに意味があるとすれば、真の友情というものが相手への単なる思い入れでなく、相手の人となりを十分理解した上で相手を受け入れるところに成り立つように、正しい神知識に基づいて神をいよいよ愛するために役立つということにあると言えるだろう。
・・・・ 
 いろいろと楽しい語らいをして、多くを教えていただいた。隣席のビジネスマンはNさんと自己紹介をなさって住所と電話番号を教えてくださった。私も自己紹介をして、このブログを紹介させていただいた。
 読んでいらっしゃいますか?Nさん。神様の恵みが貴兄の上に豊かにありますように。

「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」ピリピ1:9,10