苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

考える民、盲従する民

 中学生を見ていて、これは忙しすぎると思う。そして、先生方も忙しすぎると思う。部活の負担が重過ぎるのである。朝練と称して六時半ころには出かけて行き、放課後には六時過ぎまで練習して帰宅は六時半をすぎる。ぐったり疲れて、食事、風呂、一休みすれば、宿題もやっているかいないかで寝てしまい、また次の日となる。さらに、土曜日も、あるいはクラブによっては日曜日も。しかも、部活顧問の先生方は無料奉仕でこれに付き合わねばならない。事実上の強制であるから、労働基準法違反のサービス残業にあたるだろう。
 先生方について心配なことは、これほど部活に熱心に付き合っていて、本業の教科研究や生徒の学習指導ができるのかということと、先生方のご家庭は大丈夫なのかということである。
 子どもたちについて心配なことは、中学生になり、そろそろものを考えるべき時期にはいって、読書がとても大切なのに、その暇などまるでないという状況に置かれているということである。
 これほど部活が忙しくなったのは、私の記憶が正しければ、全国の中学がひどく荒れた二十五年か三十年ほど前からのように思う(違っていたらどなたかコメントください)。当時、友人たちと「学生に暇を与えるとろくなことはしないから、部活で時間を奪い取ればいいんだというふうに文部省は思っているのだろうか。先生たちにも考える暇を与えたくないのだろうか。」などと話した記憶がある。
 そういえば、明治以来、この国では考える民でなく、盲従する民を作ることに教育の目標が置かれてきたと聞く。いうまでもなく富国強兵のためである。そのことを実感したのは、学生時代、フランスの高校の哲学教科書の分厚さが日本の高校の倫理社会教科書のゆうに10倍以上もあるのをまのあたりにしたときだった。
「人間は自然のうちでもっとも弱いひとくきの葦にすぎない。
 しかし、それは考える葦である。」パスカル