苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

何とかして、幾人かでも

 「何とかして、幾人かでも救うために!」(1コリント9:22)元タイ宣教師、渡辺賢治先生のお話はこのパウロのことばから始まった。今日、長野福音教会で開かれた信州宣教区研修会でのことである。穏やかに、しかし、救霊の情熱にあふれて「宣教の使命に生きる喜び」がこちらに伝わってくるお話だった。そして、具体的な伝道の実践策について多くのヒントをも与えてくださった。
 社会変革のためというのでもなく、全人類を救うためにというのでもなく、「何とかして、幾人かでも救うために」と使徒パウロが語るとき、彼の脳裏には、あの老人、この青年、あのご婦人、あの少女とひとりひとりの具体的な顔が浮かんでいたことだろう。なんとかして、失われたひとりの魂にイエスにある永遠のいのちを伝えるという、この一事のために、パウロはいのちを燃焼しつくした。タイでも日本でもずっと開拓伝道に専心してこられた渡辺先生だから、宣教師パウロの心をよく分かられるのだろう。
 お話をうかがいながら、「自分が信州小海の地に宣教に行くことによって、ただの一人でも救われる方が起こされるならば本望なんだ」と不安を振り払って立ち上がった十五年前のことを思い起こした。

 神学校が大学化あるいは大学院化するという話を聞く。そうなったとき、ひとりの魂の救いのために涙を流して祈る伝道者を育てられなくなったということにならぬようにと、祈らないではいられない。

これは町長さんが撮った松原湖(稲湖)です。