苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

時のラセン構造と歴史認識

 ギリシャやインドやその他、およそ自然宗教的な時の構造は春夏秋冬の繰り返しや生命の<誕生・成長・老化・死>のくりかえしにヒントを得た円環であり、これに対して、聖書的な時の構造は創造に始まり終末に終わる直線構造だとしばしば指摘される。始点と終点という両端があるのでもっと正確に線分構造であるというべきであると思うが。ともかく円周上には特定点が存在しないので、自然宗教を背景とする円環的時間のなかでは特定の出来事はなく、ただの繰り返しなので歴史認識は生じなかったとされる。他方、線分上の点はすべて特定点であるので、創造から終末にいたるプロセス上のそれぞれの出来事には特有の意味と因果関係があり、そこに歴史認識が成立するとされる。

 しかし、もっとていねいに聖書を読むと、時の構造には、直線的な面と円環的な面という二つの側面があることに気づく。このことは、創世記第一章の記事とレビ記23−25章の暦の定め に示唆されている。全能の神にとっては、ただ「万物よあれ」という一言で、世界を完成体として出現させることはたやすいことだったが、神はあえて七日の段階を設けて被造世界をお造りになり、その事実を啓示された。創造の七日間の一日一日が万物の創造のために特定の意義を有する日として啓示されているのである。この七日間は、始まりがあり、終わりがあるという線分的な時の構造を示している。

 時の構造のもう一面は、神が「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために役立て。」(創世一章十四節)とお定めになったことによる。すなわち、時は夜と昼を繰り返し、七日ごとに安息日を繰り返し、春夏秋冬を繰り返し、七年ごとに安息の年を七回繰り返し、五十年ごとにヨベルの年を繰り返すように定められている。こういうわけで、時は始点と終点があるという意味で線分的でありつつ、繰り返すという意味で円環的なので、聖書的な時間論はラセン構造をしているということができる。筆者はこのことをもう四半世紀前に宮村武夫先生のレビ記講読から学んだ。

 そこで、よくよく考えてみた。もし時が円環構造なら特定点がないという意味で歴史認識は成立しないが、同時に、もし時が単に線分構造を成しているというだけならば、やはりそこには歴史認識は成立しないのではないか。というのは、過去にあった出来事は、二度と今日起こることはないとしても、過去にあった出来事と類似することが現在起こるからこそ、今日私たちが過去の歴史に学ぶことに意義があるからである。時の中に類似の出来事がまったく生起しないとすれば、過去と現在とを比較対照し、反省をすることになんの意味があるだろうか。だが、聖書によれば、時は螺旋構造をなしているので、単純な意味で事象の繰り返しは決して起こらないが、それにもかかわらず、ある程度類似した事象の繰り返しが起こる。また類似しているが、ただの繰り返しではなく、新しい時へと進んでいく可能性があるからこそ、過去に学ぶのである。だから、現在と過去の状況を比較して、両者の類似性と区別性をわきまえるところに、正しい歴史認識が成立する。

 母校で教会史をお話しするようになったので、改めてこんなことを考えて、今、一つの論文を書いている。