苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ゲツセマネの祈り       ルカ22:35-46


                          2009年4月19日 小海主日礼拝

「22:35そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。 22:36そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。 22:37あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。 22:38弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。
22:39イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。 22:40いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。 22:41そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、 22:42「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。 22:43そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。 22:44イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。 22:45祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって 22:46言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。ルカ22:35-46口語訳

1.状況

 最後の晩餐が終わり、イエス様は弟子たちのもとを去っていくにあたって、彼らに今後の心得をとくにお話になりました。これまで3年間、主イエスの弟子たちは、イエス様の名がイスラエルの国中に知れ渡っていたので、それぞれ派遣されて町々に伝道旅行に出るに当たって、財布も旅行袋も靴の代えもなく出かけても、行った先でイエス様を信じる人々からすべてを用意してもらうことができました。「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」(マタイ10:10)と主はおっしゃって、彼らを送り出しましたし、実際、行く先々で彼らの必要を満たす人々が備えられていました。イスラエルでは当時、みことばの働き人を受け入れた人々は、みことばの働き人を支えるのが普通のことだったからでしょう。

けれども、今は状況が変わったとイエス様はおっしゃるのです。イエスさまは不当ではあれユダヤ最高議会の裁判とローマ総督の裁判によって有罪と宣告され、十字架に磔にされようとしています。となれば、イエスの弟子団はユダヤ当局の敵とみなされてしまいます。かつてイエス様がおっしゃった「あなたがたは、わたしの名のためにすべての人に憎まれます。」という状況になろうとしていたのです。ほとんどの人々はきっと「イエスの弟子たちにかかわるとお上から睨まれるぞ」と、警戒するようになります。そこで、イエスは彼らに財布の備え、袋の備え、剣の備えをしなさいとおっしゃいました。

 気になるのは「剣を買いなさい」ということばと、それに対して弟子ペテロが「ここに二振りあります」と返事をし、それに対して「それで十分」とイエス様が答えていらっしゃる点でしょう。多くの聖書注解者は、剣については文字どおりとるべきことばではなく、イエス様は、「危機が迫っている、非常に危険な状況になるのだ」ということを意味しようとしておっしゃるのだと説明しています。ところがペテロはそれを文字どおりとって、二丁の剣を取り出して見せたところ、イエス様は「ああ。わかっちゃいないな。もう十分だ。」という意味の返事をなさったというのです。この直後イエス様は、ペテロがじっさいに剣を取り出して、イエス様を捕縛しに来た敵の耳を切り落としたとき、「剣を鞘に納めなさい。剣を取るものは剣によって滅びます。」と命じられたことからも、イエス様が武器としての通り剣を指していたわけではないというわけです。

しかし、財布・旅行袋とならべて「剣」と言われたのですから、これを比喩だと見るのは無理で、文字通り剣を意味していると取るべきでしょう。ただ、それは人をあやめるための道具としての剣でなく、今後は信者の家に簡単に泊めてもらえる状況ではなくなるので、野宿をしなければならないことも多くなるだろうから、薪(たきぎ)を作ったり野獣から身を守ったりするためのサバイバルグッズとしてのナイフを意味していたと取るのが文脈からみて自然でしょう。実際、ここで剣と訳されていることばマカイラは、辞書によれば戦争の武器としての剣ロムファイアとは区別されるナイフとしては大型の、今で言えばまさにサバイバルナイフにあたるものです。とすると、「二振り」と訳したのもいかにも戦闘用剣らしい表現なので、むしろ「二丁あります」のほうが適訳でしょうね。

歴代の聖書注解者たちは都市にある大学や教会の書斎でペンを握る人々だったので、野宿生活にナイフが必要という当時のパレスチナの生活の常識がわからなかったのかもしれません。鉈や斧が身近にある山里に暮らしている私どもにとっては、財布と袋とならんで生活用品としてのナイフが必要というのはあたりまえのことですが。

2.ゲツセマネの園で

a.いつもの場所で
 さて、こうして主イエスは最後の晩餐の席を立って、弟子たちと夜の街路を歩いて、エルサレムの東に位置するオリーブ山にある園に来ました。ゲツセマネの園です。ゲツセマネというのはオリーブの実をつぶして「油を搾り出すところ」という意味です。イエス様は、この場所でそれこそ父なる神の前で胸つぶれる思いでお祈りをなさり、汗が血のように絞り出されるようにしてお祈りなさったのです。

「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」
22:39
 「いつものようにオリーブ山に」「いつもの場所に」と書かれているように、主イエスは今回エルサレムに来られてからは、毎晩ゲツセマネの園にきてお祈りをなさっていたのです。昼は律法学者や祭司連と激論を交わし、また、弱い人々の助けとなり、癒しのわざを行なって、夜になるとこのオリーブ山のゲツセマネにやってきては父なる神と祈りのまじわりをしておられました。そして、御父の御旨からそれることがないように務め、また励ましをいただいていたのです。

b.激しく長い祈り
 主は弟子たちにおっしゃいました。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」このことばを主は二度おっしゃっています。このようにおっしゃったのは、誰よりもイエスご自身が今まさに誘惑と戦っておられたからにほかなりません。イエス様はその誘惑に対して、祈りをもって戦われたのです。

「そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。』すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」22:41−44

それは大きな叫びと涙をともなう激しく長い祈りでした。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。(ヘブル5:7)

 イエス様があった誘惑とは、何でしょうか?それは、「イエスよ。父がくださるこの上なく苦い杯を避けてはどうなのか?」という誘惑です。苦い杯とは、これから死に至るまでにイエス様が受けようとする苦しみのことです。

「あなたは栄光に満ちた神の子でしょう。なぜ、罪人たちのために、辱めを受けなければならないのか。あなたが人間たちをどんなに愛しても、人間たちは、あなたを愛することはないではないか。現に、あなたが愛を注いできた弟子たちも、すでにユダはあなたを捨て、さらに今後あなたを捨てて逃げていくことをイエスよ、あなたは知っているでしょう。あなたのことを本当に愛する弟子たちのためならばともかく、なぜ、こんな連中のために十字架にいのちを捨てる必要があるでしょうか。彼らは、それに値しない連中ではありませんか。」

 「あなたが十字架で死ぬよりも、もっとすばらしいことができるのではありませんか。あなたの力をもってすれば、ローマ軍を撃退することもたやすいことでしょう。イスラエルのかつての栄光を回復することもたやすいことですよ。なぜ、十字架になどかかる必要があるのですか。弟子たちや民衆が求めているのはそうしたことではないですか。だれもあなたに十字架にかかって欲しいとか、神の前の罪をゆるされたいなどとは願っていないのですよ。」

 「十字架であなたは、裸にされて両手両足を犬釘で打ち抜かれなければなりません。最低最悪の最期ではないですか。そして、終わりにはあなたの最愛の御父上から捨てられなければならないのですよ。それは地獄の永劫の炎よりももっと恐ろしい。なあに簡単なことです。あなたが本気になれば、苦い杯など放り出して地上に楽園をもたらすことができましょう。」

このような誘惑を主イエスは内心に聞いたのです。主イエスは、2時間から3時間にわたって、内心にこのような誘惑の声を聞き、これに対して父のみこころを慕い求めて苦しみもだえて祈られたのです。イエス様のからだからは汗が血のように滴りました。主イエスは父に向かって叫びました。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」22:42

 誘惑に会う時、父の御前に率直にこのように自分の内心を吐露することが許されているのだということを私たちは驚きをもって知ります。最初から「私の願いではなく、みこころの通りにしてください。」と祈るのではなく、はじめは「この杯をわたしから取り除けてください。」と祈ってよかったのです。

 祈りは真実であることがたいせつなんだなあと、教えられるではありませんか。祈りは正直であることがたいせつなんだということです。本音であることが大事です。祈りにおいて格好をつけていても仕方ないのです。

 本音で自分の思いを父なる神様の前にさらけだしてよいのです。それは神様への反抗ではありません。神に反抗する人は、神にむかって祈ろうとせず、神に背を向け、無視して自分のしたいようにする人です。主イエスは、毎晩毎晩このゲツセマネに来て父なる神に祈っていらしたのです。父なる神との交わりを大切になさり、赤裸々にご自分のうちなる願いをのべられたのです。本音で父に向かわれたのです。

 さて主イエスは、祈りおわりました。
「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」結論は、この杯がいかに苦くとも、父がくださる杯なのだから、私はこれを最後の一滴まで飲み干しますという決断でした。無実の罪で告発され、侮辱されてつばを吐きかけられ、いばらの冠をかぶせられ、激しく鞭打たれ、着物を剥ぎ取られて、十字架に釘で打ち付けられることを主イエスは知っていました。この苦い杯も、父からのものなのですからあえて飲もうと決断なさいました。いいえ、イエス様が本当に恐れていたのはこれらの人間からの辱めではありませんでした。イエス様が恐れていたことは、十字架において、ご自分が愛する父から見放されて暗闇に撃ち捨てられてしまわねばならないという、そのことでした。これこそ、主イエスにとって耐え難いことでした。しかし、それもまた父のみこころならば、甘んじて受けますという決断をなさったのです。そして、主は立ち上がりました。その後主は二度と揺るぐことがありませんでした。その心は平安が支配していました。その目はゴルゴタの丘にしっかりと向けられていました。
 
3.主の弟子として

さて、イエス様は祈り終わって、弟子たちのところに来られました。平行記事によれば、ペテロとヤコブヨハネという三人の弟子たちのことです。ところが、弟子たちはそこに眠り込んでました。けれども、このことを記すルカの筆は優しいですね。ルカは「彼らは不信仰のゆえに、眠り込んでしまっていた。」とは記さずに、「彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。」(22:45)と記しました。聖晩餐において、イエス様はご自分がからだを引き裂かれ、血を流すとおっしゃいました。そして、今、月光がこうこうと照らすゲツセマネの園で、イエス様が大きな嘆き叫ぶ声を上げて祈っていらっしゃるのを聞いて、鈍い彼らもようやくイエス様の死が間近にせまっていることを感じ取ったのです。悲しみに胸がつぶれそうになりながら、まるで子どもが泣きつかれて寝てしまうように、弟子たちは眠り込んでしまったのだと記すわけです。

エス様は弟子たちにおっしゃいました。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(22:46)

 イエス様は試みに遭われました。その中で父なる神に向かって、大きな嘆きの声をあげて祈りました。たましいの本音を注ぎだして、「父よ。みこころならば、この杯をわたしからとりのけてください。」と祈られたのです。そうして祈りによって、誘惑に対する勝利を獲得なさいました。

 主イエスは、「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいるべきです。」(ヨハネ12:26)とおっしゃいました。

[適用]
 主イエスはゲツセマネで、血の汗をしぼりだすようにして祈り、誘惑に勝利を収め、父のみこころにしたがって十字架へと進んでいかれました。

 主イエスの勝利に私たちはあずかっているものです。主イエスのあがないゆえに、私たちはすでに悪魔と死と罪に勝利したのです。そういう者として、私たちは主に祈りにならいたいと願います。主は自分の本音と弱さをも注ぎ出して祈りました。御子イエス様は父とただのひと時も離れたくなかったのです。その弱さをも父におささげしたのです。そこで、主は強くされ雄雄しく十字架を負われたのです。

 もし私たちが自分の強いところだけを神様に差し出すならば、神様はそこでしかあなたに会うことをなさらないでしょう。けれども、もし私たちが自分の弱いところを神に差し出すならば、神はその弱いところで私たちに出会ってくださいます。心の一番奥のだれにも開いていないその部屋を神様に明け渡すのです。そして、うわべを取り繕うのをやめて、本音を神様に申し上げるのです。そうするとき、神様はもっと私たちに近しいお方になってくださいます。

そして、御父の前に、自分の弱さをすべておゆだねした人こそ、もっとも強くされるのです。「自分は強い神の力など要らない」などといって虚勢を張っている人は、ほんとうに危機が迫るときには、もろく崩れてしまうものですが、神の前に自分の弱さも差し出してゆだねきった人は、神の力によって強くしていただくことができるのです。