苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

十字架のことば

                    2009年4月5日 受難週 小海主日礼拝

「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。 」1コリント1:18口語訳
 
序.人類を二分することば
 なんと強烈なことばでしょうか。このことばは人類を滅びにいたる人々と、救いを受ける人々とにすっぱりと二分してしまうのです。「人類みな兄弟」ということばが好きな現代人は、「だからキリスト教は独善的なのだ」と怒り出すかもしれません。けれども、カッカする前に聖書のいう意味を冷静に聞いてみましょう。まず滅びとはなにか。次に、救いとはなんでしょうか。そして十字架のことば、神の力とは。

1.滅び

聖書でいう「滅び」とは、創造主との人格的交わりから切り離されている状態を意味しています。神との断絶です。だから、たとえ地位もお金も名誉もあって、健康で、なに不自由なく、一見楽しそうな生活としている人であっても、創造主である神に意識的に背を向けたり、あるいは神さまに無関心でいたりするなら、北斗の拳のセリフではありませんが、「お前はすでに死んでいる」のです。「あなたがたは、かつて罪と罪過のなかに死んでいた」(エペソ2:1)とも聖書は表現しています。もちろん、肉体は生きているのですが、いのちの源である神様との関係が切れてしまっているので、死んでいるというのです。

この季節、そろそろこの寒い小海でも梅のつぼみが膨らみ始めました。あのつぼみがたくさんついた枝を切って、花瓶に差して暖かい部屋においておけば、やがて美しい花が咲くでしょう。けれども、梅の実は実るでしょうか。実ったら梅干を作ることができるでしょうか。いいえ。決して花は実を実らせることなく、花は枯れてしまいます。あだ花になってしまいます。なぜですか。それは命のもとである木の幹から切り離されているからです。うわべは生きているように見えますが、実はすでに死んでいるからです。
同様に、いのちの源である神様との関係が切れている人つまり滅びている人も、うわべは生きているように見えます。むしろ、かえって神様に背を向けている人は心にむなしさと不安を抱えているので、その現実から目をそらすために、血眼になって趣味・仕事・金儲け・おしゃれ・宗教・哲学など夢中になれるものを探し回るので、一見はでに花を咲かせていたりするかもしれません。けれども、どんなに求めてもやはり空しい。いのちがないからです。どんなに美しく咲いていたとしても、それはあだ花だからです。やがて枯れて、焼かれてしまうからです。本来、すべての人は、神との人格的交流のうちに喜びと平安を得るように造られているのに、神と断絶しているからです。人の心には神以外の何者をもってしても埋めることのできない空洞があるのです。

そして、創造主など関係ないという生きかたを選んだ人は、やがて必ず訪れる肉体の死後も、自らが望んだように、神から隔絶されたむなしい、たましいの渇きの場所である死者の国に永久に住むことになります。金持ちとラザロの話を以前に学びましたが、神を恐れぬ金持ちはよみに落ちたとき、彼はのどが渇いて渇いてしかたなくて、たとえ一滴の水でもよいから、この渇いてひりひりする舌にたらして欲しいと願ったとあります。あの渇きはなんだろうと思いめぐらすと、きっと魂のかわきを意味しているのでしょう。あの金持ちは、この世にあっては神に背を向けて、金儲けに狂奔し、贅沢三昧をすることで魂の渇きをごまかすことができたのですが、地獄にはビタ一文もって行くことはできません。人は、未来永劫つづく渇きの炎の中に落とされてしまうと、もはやごまかしはきかず、その魂の渇きはいやしがたいのです。いっそ死んでしまいたいのですが、すでに死んでしまっているので死ぬこともできません。

滅びとは、いのちの源である神との断絶であるゆえに死であり、それは、底知れずむなしく、かわくことなのです。

2.救い

 では、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1:18)ということばの「救い」とはなんであると聖書は語っているでしょうか。
救いとは、神との断絶を意味する「滅び」とは反対に、神とともに生きる人生を意味しています。

その人はもしかすると経済的に豊かかもしれないし、あるいは貧しいかもしれません。立派な肩書きや地位があるかもしれないし、まったくないかもしれません。健康であるかもしれないし、病気かもしれません。そんなことは救いの本質とは関係がないことです。お金や才能や地位や健康はあったらよいことですが、もしそれが与えられているならば、それをどんなふうに神を愛し隣人を愛するために活用するかを神様の前に責任を問われるわけです。それはともかく、救いとは、創造主である神と人格的な交流のある生活なのです。救われた人は、万物の創造主である神が自分とともにいてくださって、人生を守り導いてくださることを確信しています。

たしかにクリスチャンの人生にも嬉しいこと楽しいことばかりでなく、つらいこともあります。けれども、神とともに生きる「救われた人生」には充実感と平安と喜びがあるものです。

神とともに生きる人生に充実感です。むなしくありません。神に背を向けた滅びた人生は、あだ花なのでむなしいものですが、神とともに生きる人生は、途上に嵐の日や日照りの日がかりにあったとしても、最後には必ず天国で実りが収穫できるからむなしくありません。「彼らのよい行いは彼らについていくからである。」と黙示録にあります。私たちのこの世における神を愛し隣人を愛するためにした、小さな行いも、神様は覚えていて「よくやった。よい忠実なしもべだ。」とほめてくださいます。

また神とともに生きる人生には平安があるというのは、大船に乗った心地とでもいえばいいでしょうか。万物の創造主にして支配者であるお方が、私のことをご自分の瞳のように守って人生を導いていてくださるのですから、たとえ今病気であったり貧しかったり、あるいはかりに死ぬことがあっても、最終的に決して悪いようにはなさることがありえないからです。時には、自分の人生設計がうまくいかなくて、大きな挫折を経験することがあるかもしれませんが、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる」と知っているから、平安があるのです。

それにしても、救われた人にも、いずれは死が訪れます。『人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている』からです。しかし、その死も、救われた人にとってはまた益なのです。

同盟教団教理問答43番
キリスト者のさばきとは何ですか。
答え 神の御前で、キリストによる無罪が言い渡され、永遠に神とともに生きることが許されるためのさばきです。」

すばらしいでしょう。その日、私たちは生まれてこの方、心につぶやいたこと、口で言ったこと、手で行なったことを逐一調べ上げられ、目の当たりにさせられて、自分はなんと多くの罪を犯してきたことかと愕然とするでしょう。神様のためにした行いがなんと少なかったなあとがっかりし、「ああ私には地獄こそふさわしい」と思うかもしれません。けれども、神はおっしゃるのです。「たしかにあなたはこれらの罪を犯してきたが、あなたはイエス・キリストを信じていた。あなたの罪の罰は、すでにイエス・キリストが背負って死んだのだ。あなたはもう許されている。安心して永遠の祝福に入りなさい。」

ですから、キリスト者にとってはまさに「 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」この世での使命を果たし、走るべき道のりを走り終えれば、天国の栄光の義の冠が待っているのです。

3. 十字架のことばは神の力

「 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」1コリント1:18

では、人類を二分してしまう「十字架のことば」とはなんでしょうか。それは、「神の御子イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架に死んでくださり、三日目によみがえられた。」という福音のことです。

最初の人が堕落して以来、すべての人には罪があります。嘘をついたり、人の幸福をねたんだり、人の悪口を言ったり、神などいるものかと暴言を吐いたり、盗んだり、人のものを欲しがったり、親不孝したり、配偶者以外の異性に情欲をいだいたりと、私たちは日々罪を積み重ねており、その罪が神と人とを断絶させているのです。神様は、十戒でお命じになりました。

「第一.あなたには、私のほかに他の神々があってはならない。
第二.あなたは自分のために偶像を造ってはならない。
第三 あなたは、主の御名をみだりに唱えてはならない。
第四 安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ。
第五 あなたの父母を敬え。
第六 殺してはならない。
第七 姦淫してはならない。
第八 盗んではならない。
第九 あなたはあなたの隣人に対し偽証をしてはならない。
第十 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

生まれてから死ぬまでこれらの戒めをすべて守りきった人のみが、神の御前に罪のない人ということができます。もし人が自分の力で、これらの戒めを生まれてから死ぬまでに守りきることができたなら、その人は神とともにある天国にはいることができます。あなたはどうですか。ところが、このたった十の戒めさえ守れた人は、人類の歴史上たった一人の例外を除いてほかにいないのです。

パウロという人は、まじめなユダヤ人の家庭に生まれたきまじめで優秀な人でした。彼は律法についてはパリサイ派で、人から後ろ指さされるようなことはただの一度もしていないと言えるほどでした。けれども、ある日パウロは自分にはどうしても守れない戒めがあることに気づいたのです。懸命に努力しても、いや努力すればするほど破ってしまう戒めがあることに気づいたのです。それは第十番目の戒め「隣人のものを欲しがってはならない。(むさぼってはならない)」でした。彼は次のように言っています。

「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。

しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」(ローマ7:7−10)
パウロは日夜「第十 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」と律法を胸に唱えて努力しましたが、努力すればするほど、自分の内側からむさぼりが噴出してくる恐ろしい罪の現実を知ったのです。人の力は人を救えないと知ったのです。

私たち人間はアダム以来、みな罪を犯してきました。どんなにがんばって、どんなに努力し、どんなに修行しても、こんな人間としてあたりまえのたった十個の戒めさえ守り通すことができないのです。なんと惨めなことでしょうか。人間の力では、どのようにしても、自分を罪とその呪いから救い出すことはできないのです。

けれども、人にはできないことを神がしてくださいました。神様はそんな罪に打ちひしがれた私たちを哀れんでくださいました。哀れんでなんとかして救ってやりたいと思ってくださいました。そこで、2000年前、神の御子キリストが地上に人として来られました。イエス様は、私たちには決してできないことを実行なさいました。つまり、愛に満ちた完全なご生涯を送り、すべての戒めをまっとうされたのです。その上で、イエス様は十字架にかかってくださいました。私たちが、犯した数々の罪の呪いをその身に背負うためです。十字架上に釘付けにされたキリストは祈られました。「父よ。彼らを赦してください。彼らは自分でなにをしているのかわからないのです。」

私たちは罪に対する自分の無力を認める必要があります。そして、ただ神が成し遂げてくださったイエス・キリストによる罪の贖いを感謝して受け取るのです。そのとき、私たちは神の御前に罪を赦され、神とともに生きる永遠のいのちを得るのです。
人の力は、人を救うことはできませんただ神の力が私たちを罪と滅びから救うのです。十字架のことばは、神の力なのです。

これが、十字架のことばです。この十字架のことばを聞いて、あなたはどう思うのでしょうか。「なんと愚かなことだ。」と思うでしょうか。それとも、「なんとありがたいことばではないか。」と思うでしょうか。十字架のことばは滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける者にとっては神の力なのです。