神学
苫小牧の教会の水曜日の聖書研究祈り会で順々に読んできたものです。 創造からノアの大洪水で歴史の一回目は終わり、再出発したということで、創世記1章から12章には神と神の救いの計画の全体が圧縮されているという観点から、読んでみました。学問的なもの…
ハレルヤ、感謝します。苫小牧、今朝は青空が見えています。気温18.4度です。 「新・神を愛するための神学講座」の第2回「啓示について」を載せていただいた『舟の右側』7月号が届きました。 アウトラインは次の通り1.啓示は必要不可欠 2.被造物啓…
「舟の右側」6月号から、「新・神を愛するための神学講座」の連載が始まります。前の「神を愛するための神学講座」は絶版になって20年ほどたちます。その後、教えられて来てみなさんにぜひお伝えしたいことがあり、また、そろそろ向こうからお呼びがかかるよ…
ここ2,3日頭の中にあること。 創世記3章には「原福音」と呼ばれる二つのメシヤ預言がある。一つは、蛇に対する呪いの中で、「女の子孫」が蛇の頭を踏み砕くというものであり(3:15)、もう一つは、神がアダムと妻に獣の血を流して彼らの恥をおおう皮衣を作…
N.T.ライトについてかつてメモしたことを眺めて、会堂からの帰り道、思いめぐらしていたら、彼の体系が見えてきた。やはり、罪観は神学体系のアルキメデス点です。 ライトにとって罪観は、神の前の人間の罪責でなく、悪魔の力。ゆえに、ライトの贖罪論は、キ…
2テモテ3:14−17、ローマ1:16,17、3:19−24 恩寵のみ・信仰のみ・聖書のみ 2017年9月23日 JECA北海道聖会 第1回メッセージ はじめに ご紹介にあずかりました、日本同盟キリスト教団苫小牧福音教会牧師水草修治と申します。このたびは、この宗教改革5…
2列王22章 ただ神にのみ栄光を(Soli Deo Gloria) 2017年9月 JECA北海道 第2回目メッセージ 宗教改革のスローガンといえば、まずは、ドイツの宗教改革では、「Sola Scriptura、聖書のみ」「Sola Gratia恵みのみ」「Sola Fide信仰のみ」です。スイスの宗教改…
以前、はてなダイアリーで「神を愛するための神学講座」というブログを半年くらい書いた後、私のミスで消滅しました。 HBI(北海道聖書学院)で話している内容を読んでみたいと言ってくださる方がいるので、昨日、こういうのをはじめました。 アメブロは初め…
今週月曜、火曜、北海道聖書学院では、遠藤勝信先生をお迎えして、NPPの特にN.T.ライトさんの説についての講演をしていただきました。 丁寧に慎重に紳士的になさった遠藤先生の講義の前半を、大雑把すぎる方法で超簡潔にまとめてメモしておきます。(まとめ…
アウグスティヌスは、若い日から悪の問題に悩んでいた。特に、彼自身、抑えがたい性的欲求に翻弄されていたからである。そういう彼はマニ教という精神を善とし肉体を悪とする二元論の合理的宗教にはまり込んでしまう。彼は詳細を語っていないので、想像する…
今日はHBIでキリストが真の神であられつつ、真の人性をまとわれたことをまなびました。 その結論だけ、紹介します。(1)二性一人格ゆえに贖罪が可能だった キリストは、人であるゆえに人の罪を担うことができ、キリストが神であるゆえに贖罪の能力を持って…
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリント1章18節) キリストの十字架の死は、私たちが神の御前に犯した罪に対する罰を身代わりに背負うためであった。しかし、人間はこの聖書の明白な教え…
「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21) 1.劇的贖罪説 キリストの十字架の死は、悪魔の奴隷になっている人間を解放するために、神が悪魔に対して支払っ…
神学には、罪のとらえ方を支点として、3つのタイプ体系が生じる。恩寵救済主義、自力主義、そして両者の中間の神人協力説である。これはA.A.ホッジがOutlines of Theologyで言っていたこと。1.恩寵救済主義。 人間の罪は自由意志までも罪しか選べない状態…
「罪人はいったい何から救われなければならないのか?」この問いに正しく答えられるかをさぐられるでしょうか。 友人の長島勝君が翻訳した、J.I.パッカー『十字架は何を実現したのかー懲罰的代理の論理』(いのちのことば社)が、ついに出版となりました。ア…
11:49 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。 11:50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていな…
大学時代に小川圭治先生からキルケゴールを手ほどきしていただいた。ゼミで読んだのは『哲学的断片』だった。小川先生はカール・バルトに直接学んだバルト研究者であり、先年、天に召されたとうかがっている。卒論はパスカルに関するもので、主査にはパスカ…
ウィトゲンシュタイン後期における「言語ゲーム」という考え方が、近年のリベラル神学の正典的聖書解釈の背景にあるという件についての、目見当のたんなるメモ。1.デカルトの還元主義 デカルトは『方法序説』で「部分の総和イコール全体」という考え方を提…
本書は「聖書信仰」について、<宗教改革、17世紀プロテスタント正統主義、経験主義、合理主義とプリンストン神学、ファンダメンタリズム、戦前日本における聖書信仰、アメリカの新福音主義、第二世代のエリクソンとピノック、シカゴ宣言、聖書信仰を『生き…
藤本満師『聖書信仰』続読。 「ジェラール・ジュウェットは、ストーリーとナラティヴを区別した。ストーリーは、実際に起こっている出来事の歴史的内容そのものであり、ナラティヴはその出来事を物語る文学的な言説である、と。歴史的な出来事としてのストー…
数年前から考えている「自然」ということばの問題性について。 「神・人・自然」というふうに、神と世界を把握する表現がある。神は人をご自分の似姿として作り、自然を治めさせることになさった、と言った具合である。 だが、気になるのは「自然」というこ…
1.知識と愛 「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かにな り、あなたがたが真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。また、あなたがたが、キリストの日には純真で避難されるところがな…
今、四半世紀前に書いた『神を愛するための神学講座』にペンを入れて、少しだけ書き直しつつあります。そこにどうしても入れたい視点は、この件なのです。 人間はもともと三位一体の第二位格「神のかたち」である御子にあって造られ(コロサイ1:15)、被…
ああ、まさにそうだと思ったことば。 「聖書も、徹頭徹尾宗教的であり、救済を目的とした神の言葉である。しかし、それゆえにこそ、聖書は、まさに家庭や社会、学問や芸術のための言葉でもあるのである。」 「聖書は学問や芸術にとっても道の光であり、足の…
以前から、教会の葬儀について、また教会墓地使用規定について、考えるところがあったので、その根本にかかわる聖書からの考え方を、少々ここにメモをしておきたいと思います。 ある人たちは、キリスト教会が非キリスト者の葬にかかわることは世との妥協であ…
今日は北海道聖書学院で1学期最後の講義でした。来週は試験です。担当したのは、キリスト論・救済論。キリスト論と救済論とを統合したクラスです。少し時間が足りないと感じて走りましたが、まあ、一応話すべきことは話せたかなと思います。かなり多くのレ…
贖罪論についてノートを作っています。そんな中、あるブログに引用された、『殉教と殉国と信仰と』(高橋哲哉・菱木政晴・森一弘著、白澤社発行・現代書館)の高橋氏の対話を読んで驚きました。私はその本をまだきちんと読んでいないので、とりあえずのメモ…
きょう、HBIでキリストの職務について話をしました。なぜ、主イエスの死はあれほどに辱めをともなう死でなければならなかったのか、十分に表現できないのですが、少しメモしておきます。 「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全…
「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20章27節) 先週、神学校で組織神学のクラスの最初に少しだけお話したことです。 すでに緒論において学ばれたことと思いますが、最初に少しだけ、組織神学をする目…
きょうは暖かい日です。木曜なので札幌の神学校に出かけたのですが、暑くて上着をぬいでワイシャツを腕まくりしてのクラスでした。札幌のほうが少し春が早いようで、つつじが赤紫の花を咲かせていました。 クラスは、キリストの二性一人格のこと。その教理の…