10月3日の苫小牧福音教会礼拝のYOUTUBE配信は、機器が故障したので、お休みいたします。いつも視聴してくださっている方、ごめんなさい。
三光町
今朝、三光町の道を全部歩き終わりました。白髪のおばあちゃんが、庭掃除をしていらして、「双葉町の牧師です。ぼくが書いたので、読んでみてください。」と通信を渡すと、「ありがとうございます」と受け取ってくださいました。このあたりの人は、だいたいこんな感じで受け取ってはくれます。
一昨日の朝も三光町でしたが、盆栽が玄関外に飾ってあるおうちに行ったら、ちょうどそのご主人がいらして、同じようにていねいに受け取ってくださいました。北海道に来て、盆栽を見たことが、実はありませんでした。冬場の雪が多いから、冬場、やり場に困るので、する人が少ないのかもしれません。盆栽のことをお話したら、奥の庭まで連れて行ってくださって、丹精したたくさんの盆栽をみせてくださいました。ほとんどが山水の景色に見立てた盆栽で、白い砂は海や川に見立ててつくっていました。
主は私の羊飼い
月曜日、朝日課の通信配布から牧師室に戻ったら、7時前に電話があり、教会の一人の兄弟が天に召されたことを知らされました。また一緒に聖書を読みたいと願って祈っていたので残念でした。
本日、お葬式が終わり、火葬が終わって、今、牧師室に戻りました。やさしかったご夫君を見送った夫人は天の御国での再会を期して、元気に生きてゆきますと、ご挨拶なさいました。 説教は、「私の葬儀希望書」で、ご本人が愛する聖書箇所に選ばれた詩篇23篇からお話ししました。
23篇 ダビデの賛歌。
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。
よい天気
今朝は5時に目覚めても真っ暗。5時15分に日の出でした。雲一つない青空で、風も吹いていないという苫小牧にはちょっと珍しいお天気です。
いつものように、「ふくおんでなくふくいん」通信を配りに出かけましたが、きのうまでの一戸建て群とちがって、今朝は集合住宅ばかりで、そのうち二つは大きくて集合ポストがあったので、あっという間に、きょう配る分はなくなってしまいました。調子に乗って、集合ポストに入れているとうっかり「チラシを入れないでください」とあるのに入れてしまいました。取り出そうとするのも犯罪みたいなので、そのままに。
朝食前の祈りでは、今朝配ったものがむだにされず、読んでくれた人たちが、一歩でも主に近づくことができるように、と祈ります。
同性間性交に関する、聖書に基づくメモ
1 同性間性交に関する聖句
(1)創世記における、神が定めた結婚の秩序
創世記1:28
「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。』」
創世記2:24
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
創世記1章、2章は、同性間性交を明確に禁止している箇所ではない。しかし、創造つまり堕落前の正常な状態において、神は、性交は夫婦(男女)の間で行なわれるものとして定めたことを教えていることは確かである。男女の性交でなかったならば、生むことも増えることもありえなかった。
(2)旧約における同性間性交の禁止
レビ記18:6-25の特に22節
「6だれも、自分の肉親の者に近づき、相手の裸をあらわにして交わってはならない。わたしは主である。・・・(以下もろもろの近親相姦リスト中略)・・・
20また、自分の同胞の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。
21また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
22あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである。
23動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も、動物の前に立って、これと交わってはならない。それは道ならぬことである。
24あなたがたは、これらの何によっても身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、
25その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。」
カナンの住民たちが滅ぼされた理由となった諸々の習俗(近親相姦・姦通つまり異常な異性間性交・月経中の性交・モレク神への子ども奉献・獣姦)と並んで、同性間性交が禁じられている。同じような文脈で、レビ記20:13も同性間性交が禁じられている。読者は自分で文脈を吟味されたい。「男がもし女と寝るように男と寝たなら 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20:13)
レビ記の律法は必ずしも新約の時代には適用されないから、同性間性交は問題ないと主張する人は、ここに列挙された諸々の行いは新約時代のキリスト者には許されているというのだろうか。あり得ないだろう。
(3)新約における諸々の罪のリストの中の同性間性交
使徒パウロは、神の国を相続できない諸々の罪のリストの中に、男色をする者を挙げている。
「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者(avrsenokoi/tai)、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(1コリント6:9、10、11)
「すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。」(1テモテ1:9,10)
ちなみに、パウロは上のレビ記18章と20章の70人訳ギリシャ語聖書のことばから男色をする者と造語したようである。
1コリント6:10-11が教えていることは2つある。第一は、同性間性交という行為は神の前にまぎれもなく罪であるということである。同性間性交という行為は、偶像礼拝、姦淫、窃盗といったことが単なる嗜好として片付けられないのと同様に、単なる嗜好として片付けてはならない。
しかし、第二に注目すべきことは、同性間性交という罪は、文脈上、偶像礼拝、淫行、姦淫(つまり則を越えた異性間性交)、窃盗、略奪、泥酔その他のコリントの住民の習俗のうちに見られたもろもろの罪の一つであって、それだけが特別に罪だとしては扱われていないということである。不道徳な町コリントの人々の中から救い出された者として、これらの罪に逆戻りしてはならないと警告しているが、これらの罪を再び一度でも犯したら悔い改めの余地なく地獄行きだなどと教えているのではない。パウロは前の5章で罪と戒規の問題を扱っている。戒規は本人の悔い改めと救い(5:5)、教会全体への罪の感染防止のためになされる(5:6)。しかし、もし罪を罪と認めて悔い改めず、常態的に罪に溺れる生活をしているならば、その人は神の国を相続できないと警告しているのである。もしキリストを信じる者となったのに、たまさかこれらの罪に陥ってしまったときには、戒規を受けて悔い改めて主に立ち返れと勧めているのである。
だから、同性間性交は罪に当たらないと教えることは、危険なことである。それは偶像礼拝も窃盗も姦淫も罪に当たらないと教えることを意味する。それは毒を毒であると教えないほどに危険なことである。
(4)断罪される同性間性交
レビ記と1コリント、1テモテでは男色が取り上げられて罪とされるが、ローマ書では、偶像礼拝の罪の後に、女性の同性間性交が挙げられ、その後に、もろもろの罪のリストが掲げられている。
「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。」(ローマ1:26,27)
以上のように、聖書は同性間性交を罪と定めている。
2 同性に性的指向を持つことと、同性間性交をすることは区別されるべきである
同性に性的指向を持つ人がいる。先天的要因があるとも後天的要因によるとも言われる。ただし、テモテ・コール師のレポートによれば、性同一性障害が先天的なものであるとしてきたジョンズホプキンス大学医学部は、近年その見解を翻したそうである。「ジェンダー部門の研究をしていたマクヒュー博士は、性同一性障害は、先天的な要素も少しはあるかもしれないが、ほとんどが後天的なものであると主張し、学部長の時、性転換手術やホルモン治療を一切やめた。やってはいけないことと主張した。」また、「ジョンズホプキンス大学医学部は性転換手術を開発したが、追跡調査により性転換手術者の自殺率が一般の人の20倍ほど高くなっていることが判明し、方針を変えた。」ともレポートされた。
とはいえ、先天的な指向があるとするならば、「先天的な指向であれば、本人にはどうしようもないことなのだから、それはそのまま是とされるべきである。」という議論がある。だが、これは聖書信仰に立つわれわれにおいては成り立たないだろう。なぜなら、聖書は、人類はアダムにあって堕落したために、全ての人はそれぞれ生まれながらに、何らかの罪への指向を持っていて、それ自体、罪深く残念なことであると教えているからである。
さらに、私たちは先天的な罪への指向に加えて、後天的にも、罪への指向をもつようになる。偶像崇拝に親しむ文化の家庭や社会に育った元異教徒の中には、回心して後も偶像の宮に親近感を抱いてしまう場合がある。そうした感覚をもっていることは残念ではあるが、その感覚を教会が断罪することはできまいし、すべきではあるまい。しかし、偶像崇拝を実行してしまえば罪であるから、悔い改めが必要である。また、スリの家庭に育ち、幼い日から手際よく盗むとほめられて育てられて、盗癖がついてしまった人がいる。そういう盗みへの指向を持っていることは残念だが、盗みを実行しなければ教会は断罪すべきではあるまい。しかし、そういう人が盗みを実際に行えば罪であるから、悔い改めが必要である。
この堕落した環境の中に生まれて来た我々は、多かれ少なかれ、それぞれに先天的・後天的に何か罪への指向を持っていて、それは残念な現実であり、本人は苦悩せざるをえないが、それを実行しなければ断罪すべきでなく、むしろ、キリストにある赦しと希望を告げるべきである。実行した場合には、悔い改めてキリストに立ち返るように導く必要がある。
同じように、先天的あるいは後天的に、同性に性的指向を持つ人がいる。その指向があることは残念だが、断罪されるべきではない。むしろ、キリストにある赦しと希望を告げるべきである。しかし、もし同性間性交を実行するならば罪であるから悔い改めを求めることが、その人を神の前に生かすことである。
130周年記念大会
教団130周年記念大会の分科会はLGBT+に関する会に出ました。一部紹介します。講師は都内のS神学校の講師の一人だそうです。
まずLGBT+にかんする西洋の歴史を概観すると、キリスト教以前の古代ギリシャ世界では肯定され、キリスト教が広まるにつれ否定され、啓蒙主義者によるフランス革命以降、キリスト教の影響が後退するにつれて、肯定する人々が現れ、多元主義の現代ではますますそうなって、欧米ではLGBTの権利を保護する法制化も進んでいる。
今日、米国の教会では、自由派は肯定、保守派は否定と、二分している。(水草:自由派とは啓蒙主義的理性で聖書を単なる古代文献と読む立場であり、保守派とは聖書の神の啓示としての権威を受け入れている立場です。)
いただけなかったのは、「聖書釈義については自由派と保守派はそれぞれの主張のバイアスがかかっているから、水掛け論にしかなりません」と前置きして、実際に講師が肯定的に紹介したのは、自由派の釈義だったことです。
金持ちと乞食ラザロの話(ルカ16章)で気づいたこといくつか
1.主イエスはたとえ話で個人名を入れないのに、この話ではラザロという名が入っています。→これはたとえでなく、実際にイエス様が知っている出来事なんでしょう。
2.金持ちは名前は名無しで、乞食はちゃんと名があることにも考えさせられます。これはこの世では逆ですね、普通。→ラザロは神に知られていたということ
3.ラザロは単に「死んだ」とあり、金持ちは「葬られた」とあること。→ラザロはただ遺体が片付けられたのだけれど、金持ちはたいそうな葬式をしたのでしょう。しかし、葬式の立派さ粗末さと永遠の運命は比例せず、時に反比例する。
4.ハデスの金持ちは、主のみもとのアブラハムに対する訴えにおいて、ラザロを遣わして金持ちの舌を冷やしてくれるよるように頼みました。金持ちは「ラザロ」と名指したのです。金持ちはラザロと知り合いだったのでしょう。知り合いでありながら、門前で餓死する彼を無視したところに、彼の残忍さが現われています。