苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

窓が開いていた

 今朝5時過ぎに会堂に通信を取りに来たら、足の裏がびっちょり。窓が一つ開いていて、きのうの雨が降りこんだのでした。窓際においてあったB4の紙の束3つのうち一つがぶわぶわになり、あとの二つは、包み紙のコーティングで守られました。感謝。住宅地図がビショビショのブワブワになりました。雑巾と新聞紙で拭いて拭いてなんとかしました。・・・水道管破裂のときに比べたら百分の一程度のことでした。
 住宅地図は冷凍庫へ。そうしたら、ブワブワが治るという噂をきいたので。楽しみ。
それから、少しばかり緑町1丁目に通信配布。この辺りは、道がぐにゃぐにゃでよくわからない。・・・擬態語の多い報告でした。

「小さい者たち」は試金石

18**章**
1**,そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
2**,イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、**
3**,こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。**
4**,ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。**
5**,また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。**
6**,わたしを信じるこの小さい者たち(mikro-n)の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。

 主イエスは、「半人前であると君たちが見下す立場にある子どもたちであるが、へりくだった彼らこそ君たちの先生であるから、彼らからそのへりくだりを学びなさい。そして、彼らを受け入れるかいなかによって、君たちの信仰が本物かどうかがテストされるのだ。」と言われた。そして、主イエスは子どもを指して「この小さい者たち」と呼んでいる。

 だが、マタイ10章で言われる「小さい者たち」が意味しているのは、主イエスが福音のために遣わした弟子たちである。

マタイ10章

40**,あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。**
41**,預言者預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。**
42**,まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たち(mikro-n)の一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」

   マタイ福音書10章の記事で、主イエスが町町、村村に伝道者を派遣したとき、わざわざ彼らに「9,胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。10,袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。」と命じられた。主イエスは、弟子たちをあえて寄る辺のない姿で町や村に送り込み、町や村の人々の弟子たちに対する扱い―受け入れるか、拒絶するかーによって、その人々をテストされた。

 「靴屋のマルチン」で有名なマタイ福音書25章の王による審判の記事も、この福音書の文脈をわきまえるならば、本来的には、そのように解釈されるべき箇所であろう。

マタイ25章

31**,人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。**
32**,そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、**
33**,羊を自分の右に、やぎを左に置きます。**
34**,それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。**
35**,あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、**
36**,わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』**
37**,すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。**
38**,いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
39**,いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40**,すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たち(elachistos)の一人にしたことは、わたしにしたのです。』

  ここに登場する、空腹で渇いて着る物もない宿のない旅人、投獄されている人というのは、たんに生活困窮者でなく、あの弾圧厳しい時代に町々村々にイエスの福音を伝えてまわった巡回伝道者、もしくは弾圧を逃れて散らされてきた人々を意味していると理解するのが、初代教会の状況からすると妥当である。コンスタンティヌス大帝がミラノ勅令を発して、キリスト教が公認されるまで、教職者たちはこのような意味で「小さい者」であり、出会う人が本物の信仰者であるかどうかをためす試金石であった。

 しかし、やがてヨーロッパでは教会が帝国の宗教となり、歴史的経緯の中で国家とならぶ大きな権力を持つようになっていくと、教職者たちは「小さな者」ではなく「大きな者」になってしまった。そんな中世キリスト教社会に、「小さき者」とした現われたのがアッシジのフランチェスコだった。

律法の三用法について

 近年は、「和解の福音」とか「ホーリスティックな福音」いう言い方で、聖書に関する教えならばなんでも「福音」と呼んでしまうのが流行りのようですが、実は、私はいただけないなあと感じています。マルティン・ルターは、「律法とは人間がすることであり、福音とは神がしたことである。」と言ったそうです。出典は未確認ですが、ルターらしい表現だと思います。今回は、律法の用法について、少しメモしておきたいと思います。

 律法には三つの用法があると言われます。一つは社会的用法、一つはキリストに導く養育係的用法、一つはキリスト者が生きる規範としての用法です。

 社会的用法というのは一般恩恵としての用法であって、社会一般に対して正義とはなんであるかを知らしめる用法ということです。世の中がノアの時代のように、悪へと常に傾いている状況にあって、教会は神の正義の基準はこういうことですと発信し続ける必要が増しているのではないかと私は考えています。

 養育係的用法と規範的用法は特別恩恵的な用法で、キリストに導く養育係的用法は、ガラテヤ書3章からの言い方です。「22,しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。23,信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。24,こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」つまり、人間に罪を自覚させ、自分では自分を正しくすることはできないことを悟らせて、救い主キリストを信じ義と認められるように導く働きです。ローマ書でいえば、3章に説明されている律法の用法です。

 規範的用法というのは、キリストにあって神の前に義と認められ、子とされた者が、神のみこころにしたがって祈りつつ生きていくときの規範に当たるものです。言い換えると、聖化の上でのガイドラインです。これは、ローマ書でいえば、12章以降で説明されているキリスト者の生き方です。

 では、これらを教えるに当たっては、いちいち規範的用法だ、養育係用法だ、一般的用法だと対象別つまり未信者・求道者・信者に区別して説明しなければならないのでしょうか。そういう必要はないのではないかと考えるようになっています。聖書における人間がすべきこと、してはならないこと、つまり律法を説いて行けば、聖霊の御働きによって、ある人には規範として聞き従うように聞こえ、ある人にはキリストに導く養育係として聞こえて自分の罪を悟らせ、ある人には正義とはそういうものなのだと理解させるのであるというふうに考えるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

HBIサンデー

 昨日はHBIサンデーで、札幌の北栄キリスト教会にうかがいました。緊急事態宣言が明けたということで、ある程度の人たちが礼拝につどっていて、それぞれの自宅でオンラインで礼拝をささげている方たちもいらしたようです。午後は、「教理を学ぶ意味」について話をするように求められたので、お話してきました。
 まず、なぜ宗教改革直系の改革派やルター派はカテキズム教育があるのに、福音派はなんとなく教理に対するアレルギーがあるのかということを歴史的にお話して自己理解を深めました。つまり、現代に生きる私たちは宗教改革とその体系化である正統主義の遺産である聖書の体系的理解と広い視野と、敬虔主義の遺産であるみことばそのものに親しむことと祈りと宣教の情熱とをともに受け取って、主のために実を結ぶものでありたいという話をしました。

 その講演の概要は、下のリンク先にあります。

ameblo.jp

主の生涯のステンドグラス

 本庄兄が、主イエスのご生涯を描いたステンドグラスを作成して、今日、礼拝堂の窓に設置してくださいました。ほんとうに感謝です。

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降誕

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山上の垂訓

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ゴルゴタの丘

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復活昇天再臨

 

マウス絵

 久しぶりで、マウスを使って、週報用のカットを描いてみました。

巻貝とカブトムシ。写真を眺めながら描くのですが、なかなかバランスが難しいものです。なんとなく見ていると当たり前の姿なのですが、描いてみるとなかなかうまく描けません。絶妙のバランスで設計され造られていることがわかります。

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立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。

  「最近ハマッていることない?」と長男が質問してきました。なにか父の日のプレゼントをくれるというのです。最近、面白くなってきたのは、「苫小牧通信」の手配りです。この頃は朝日が出るのも早く、やたらと早く目が覚めてしまうので、港の方とかふるさと海岸だとかに一日八千歩を目安に散歩に出かけていましたが、せっかくそんなに歩くなら、「通信」を配って歩こうと思い立ったのです。4月から毎朝百枚程度、自宅のある町内と教会堂のある町内を配ると一週間で五百枚程度、一カ月で二千枚程度配れます。朝が暗く、凍てつくころになったら、どうなるかわかりませんが、秋の終わりまで続けようと思っています。

 その範囲で繰り返し配ろうかなと思っていたのですが、もう一方で、この足で、東西に長い苫小牧の町という町を端から端まで歩き回って、通信を配布してみたいものだなあという気持ちがわいてきました。というのは、通信を配っていると、主がアブラハムにかけたことばが思い浮かんできたからです。

 「ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」創世記13章14-16節

 別に土地はいらんのですが、神様に任された家々に、くまなく福音を伝えたいなあという思いです。苫小牧市は世帯数は9万527だそうです。

 それで、息子が送って来たのは黒い七分のスパッツでした。でも、また苫小牧の朝は寒いんですよね。